2008年6月28日

同じブラウザなのに,表示が崩れる

 おかしい・・・
 MovableTypeの記事が,違うパソコンで見ると,同じブラウザであっても,表示が崩れることがある・・・

 具体的には,このバッタリ日記(htto://xv250.com/type-x/)が

  ・自作メイン機 Sleipnir index.htmlのみside(右)が中央に食い込む
  ・東芝ノート  同上   正常
  ・ぐるぐる1号 同上   正常
  ・ヤマダ電機のメーカー製 IE7 正常
  ・職場のノート Sleipnir 全てぐちゃぐちゃ 一列表示
  ・同上     IE6    同上

といった感じ・・・

 ブラウザの種類によって,タグの解釈が異なる(表示が異なる)ことはよくあることだが,同じブラウザで,パソコンが違うと表示が異なる,というのはどうしてなんだろう・・・(ヤマダ電機の最新機種で確認して,安心していたんだが・・・)

 職場のノートと東芝ノートはほぼ同じ解像度だから,横幅設定の問題ではないとは思うんだが・・・(参照:「自宅ではちゃんと2カラムになっていたのに」http://10max.net/2008/01/post-76.php)

 考えられるのは,パソコンの環境固有の問題(エンコードを固定しているとか)か,キャッシュぐらいか・・・


その後・・


 職場のノート(Sleipnir)の場合,「表示」?「スタイルシート」?「デフォルトのスタイルシート」で,意図したとおりに表示された。
 職場のノート(IE6)の場合,Sleipnirのようなオプションはないのだが,Sleipnirの設定を変えた後に表示させたら,ちゃんと表示された。

 ネットでぐぐってみると,IEの場合は,
 ・Internet Explorerのメニューから「ツール」→「インターネットオプション」を
  クリック
    ↓
 ・「インターネット一時ファイル」内の「ファイルの削除(F)」をクリック
    ↓
 ・ 「すべてのオフラインコンテンツを削除する」 にチェックを入れ「OK」をクリック
ということになるらしい・・・

 まあ,一応解決だが・・・

 スタイルを一変させた再構築の後など,ブラウザのキャッシュを,表示側からクリアする方法はないもんだろうか・・・
 それとも,余り頻繁にいじりまわすな,ということだろうか・・・

 あと,右サイドだけ文字がずれる原因は,「文字の大きさ」でした。
 「大」以上だと,ずれます・・・
 原因は,勉強中・・・


・・さらにその後・・



 右サイトがずれるのは,メインインデックスのみで,月別やカテゴリ別ではずれません。
 それらとメインページとの違いは,タグクラウドの有無のみ・・

 ということで,メインインデックスのサイドのテンプレートから,タグクラウドの部分をしてみました。

 その結果が,現在のページです。

 文字サイズを特大にしても,崩れてはいないと思うのですが,どうですか・・・

2008年6月27日

旧鹿児島刑務所正門

Image1.jpg 鹿児島アリーナの入り口に立つ旧鹿児島刑務所正門    このアリーナ公園は,息子の縄張り公園の一つでもあります。  旧鹿児島刑務所は,日本で唯一の石造りの重厚な刑務所だったそうで,その全体写真を見たかったのですが,刑務所という建物の性格の為か,ネットでは発見できませんでした。

 この正門は,子供らの美術の宿題に,いつも一役買ってくれています。
 設計は,鹿児島出身の山下啓次郎です。

(参考リンク)
 旧鹿児島刑務所正門
 鹿児島市医報(親子の交流がうらやましい)


山下啓次郎
 山下 啓次郎 (やました けいじろう、 慶応3年12月(1867年12月) - 昭和6年(1931年) は明治・大正期の建築家
 東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)卒業。司法省に務め、五大監獄を設計する。
ジャズピアニスト、山下洋輔は祖父・啓次郎の事跡を尋ね、小説「ドバラダ門」を書いた。

経歴
1867年(慶応3年)鹿児島に生まれる、父は薩摩士族、房親
1876年(明治9年)上京
一高を経て工科大学へ。辰野金吾のもと、建築を学ぶ
1892年(明治25年)帝国大学工科大学卒業(同期生に伊東忠太ら)
警視庁入庁、のち司法省に移り営繕を担当
1901年(明治34年)? 欧米の監獄を視察し、翌年帰国 
1930年(昭和5年)司法省を辞する
1931年(昭和6年)逝去

主な作品
千葉監獄(1907年、現千葉刑務所)
鹿児島監獄(1908年、門のみ現存)
奈良監獄(1908年、現奈良少年刑務所)
名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所(1922年、現名古屋市市政資料館)
山下が中心になって設計した千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島の監獄は五大監獄といわれる。

 さて,甲突河畔のモニュメントを巡る旅も,ここで一応終わりです。
 ほんとは,ここから出発すべきだったのかもしれませんが,まあ,松方正義の序幕日が最初の記事だったこともあって,並び方はばらばらになってしました。

2008年6月26日

甲突河畔のモニュメント 意味不明の碑(桜樹植樹記念碑)

PICT0017.JPG これは,何が書いてあるのかさっぱりわかりませんが,裏を見ると,肥薩鉄道の開業を記念した桜の植樹の記録のようです。  植樹の計画を立てた会社が,この碑を建てたようですが,残念ながら,肝心の会社名も読めません。

 鹿児島県知事 阪本 釤之助(さかもと さんのすけ)は,安政4年6月24日(1857年8月13日) - 昭和11年(1936年)12月16日)。1907年から1911年まで知事だったようです。
 作家、詩人の高見順は庶子。タレントの高見恭子は孫。作家の永井荷風は甥,だそうです。
  


(裏面)
明治42年11月20日肥薩鉄道開通式の当市に挙行
せらるるや我社は此盛典を記念せん為め地を甲突河畔
種馬場の両岸にとし桜樹を移植するの計画を立つ時に
同感の有志469名奮てこの計画を賛助し同年12
月初旬其工を了つるを得たり移植の桜樹495本
両岸の延長各8丁30間実に宛然たる○堤なり爾来桜
樹の生育良好にして花時の風景最も佳なり世人種馬場
の称を改め桜馬場と称するも偶然に非ず将来幸いし
て江湖諸彦の愛護に依り○茂するの暁には此地の薩
南の一名勝たるは○○て待つへきなり今○記念碑建設
に際し茲に其顛末を録し後代に伝ふと云爾
明治44年3月22日
鹿児島○業○○社

 

2008年6月25日

甲突河畔のモニュメント 乃木将軍婦人湯地氏誕生之地

yuji.jpg 乃木将軍婦人湯地氏誕生之地の碑  なぜか,台座のみで肝心の碑or銅像がない・・・

 実はこの碑の隣に,写真の「湯地中将生誕の地」の石碑がある。
 この石碑も,頌が記されていたであろう銘板がなく,石碑の裏も,削られたのではないか,と思われる痕がある(削りだしの石なのかもしれないが)。

 なんだか,事情がありそうですが・・・・
 息子の説では,台座の上には鉄の像が立っていて,誰かに盗まれて中国に売られた(マンホールのように),というものです・・・


 さて,村野山人は村野山人小伝が詳しい。

 これによれば,村野は乃木静子の10才ほど年長と云うことになる。
 村野氏は,野木大将の殉死に感銘して,一財を擲って乃木神社等を建立したという。

-------------------------------------------

乃木静子(Wikipedia)

乃木 静子(のぎ しずこ、安政6年11月6日(1859年11月29日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、幕末・明治期の女性で、陸軍大将・乃木希典の妻。

来歴
 安政6年11月6日、鹿児島藩医・湯地定之・貞子夫妻の4女(7人兄弟姉妹の末っ子)として出生。幼名はお七、またはお志知。
 明治5年12月2日、当時、数え14歳の時に海外留学から帰国した長兄・定基に呼び寄せられる形で家族揃って東亰赤坂溜池2番地の湯地定基邸に転居、東亰府麹町區にある麹町女學校に入学。
 陸軍軍人・伊地知幸介や野津鎮雄らの勧めにより、躊躇しながらも数え20歳で希典と結婚。
 長男・勝典を始め、4人の子宝に恵まれるが、勝典と次男・保典を残し、下の二人は生後、間もなく夭折する。
 新婚当時は生活も厳しく、貧しい生活をしている上に姑・乃木寿子(久子表記での文献有り)との確執もあり、苦労・苦悩が続き、1年半ほど勝典・保典を連れて別居している。
 日露戦争が開戦し、出征する希典(出征時は既に陸軍中将?陸軍大将)・勝典・保典(二人とも出征時は既に陸軍少尉)に東亰・銀座の高級化粧品店・資生堂で1つ9円もする香水2つと8円の香水1つの計3つを購入し、贈る。
 当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりだったが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈った。
 当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2ヶ月分に相当する。
 静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、もし戦死した後、遺体から異臭が放たれれば夫と愛息子が不敏この上ないという妻として、母親としての哀しいまでの家族を想いやる愛の表現であった。
 明治37年5月27日、勝典が金州南山(通称:金山または南山)で銃弾に打たれて腸を損傷、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、軍医による手術・治療を受けるも出血多量で戦死した。
 勝典は死後、1階級特進で陸軍中尉に昇進。
 明治37年11月30日、苦戦を強いられていた帝国陸軍は第3軍司令官・希典と児玉源太郎大将の戦略で203高地を進軍していたが、この時に保典が砲弾に打たれたショックで岸壁から滑落、岩場に激突し、頭が砕けて戦死した(即死)。
 保典も勝典と同じく、1階級特進で陸軍中尉に昇進。
 晩年は盆栽などを僅かな楽しみとしたといわれる。
 明治45年7月、明治天皇が糖尿病により逝去、その後の大正元年9月13日、明治天皇を追って希典と共に乃木邸(現在の東京・港区赤坂にある乃木神社)にて胸を突き殉死。享年、数え54歳。

性格
 湯地定之・貞子夫妻の末っ子として誕まれたこともあってか、両親・兄姉らに蝶よ花よと大切に育てられた為、性格は内向的で、体もさほど丈夫ではなかった。
 当時はまだ写真撮影が高価な時代であったため、若いころの写真が残っておらず(あっても本人かどうかが特定できないため)、本人であると確認できる写真は晩年のころのものしか無いが、10代・20代のころは美女であったとされる(末っ子であったため、大事に育てられた育ちの良さも関係するとの見方もある)。
 今日では大和撫子と呼べるほどの女性は絶滅したともいわれているが、彼女のことをわが国始まって以来の史上最高の大和撫子に挙げる声も大きい。

辞世の句
出でましてかへります日のなしときく
 けふの御幸に逢ふぞかなしき


家族(乃木家)
乃木希典(1849-1912) - 夫
乃木希次(1805-1877) - 義父(希典の実父)
乃木寿子(1828-1896) - 義母(希典の実母。一部に乃木久子表記での文献有り)
乃木勝典(1879-1904) - 長男
乃木保典(1882-1904) - 次男
乃木恒子(1885-1886) - 長女
乃木直典(生没年不詳) - 三男

家族(湯地家)
父 - 湯地定之:鹿児島藩侍医
母 - 湯地貞子:鹿児島藩士である池田家の娘で、結婚前の幼名は天伊(テイ)。
   結婚後の名前の読みはサダコである。
次女・三女の結婚後の名前にていの読みがあるのは実母の幼名から採られている。
長兄 - 湯地定基:貴族院勅撰議員、根室県令(1843-1928)
次兄 - 湯地定康:海軍大尉
末兄 - 湯地定監:海軍機関中将、貴族院勅撰議員
長姉 - 名前不明:夭折したため、名前は不明。
    永らくの間は長妹が当人(本来の長女)だとされていたため、名前も馬場貞子と思われていた。
次姉 - 幼名不明:結婚後に馬場貞子となる。
    結婚後の名前の読みはテイコである。(母親の名前と同じ字画なので区別するためと想われる。)
    長姉の夭折により実質的な長女として育てられたため、永らくの間は本来の長女の名前が馬場貞子であるとされ、次女である当人が夭折したとされていた。
    希典・静子夫妻の遺体を発見したのは彼女である。
末姉 - 湯地お六:結婚後に柴テイとなる(てい・てい子・テイ子などと表記する文献もある)。
    静子と最も歳が近いため、特に仲が良かったといわれる。


甲突河畔のモニュメント 堀井鶴畦書碑

PICT0061.JPG  堀井鶴畦書碑です。  この碑は,ごらんの通り,大変美しい。  とても昭和62年に建てたものとは思えません。  裏面の写真もあるのですが,あまりにピカピカで,写真を撮っている私が映り込んでいます。  形といい,色といい,硯をイメージしているのでしょうね・・

 碑文は,
  碧水忽開新鏡面青
  山都是好屏風
と読めます(違うかも・・・)

 検索しても,意味はわかりませんでした

 また,残念ながら,「堀井鶴畦」で検索しても,ヒットする情報はありませんでした。

(裏面)
堀井鶴畦先生の功績を顕彰する為に鹿児島県書道会
並に有志一同之を建つ
 昭和六十二年四月
    略歴
 一 明治二十年十一月六日 福岡県朝倉郡大福村で出生
 一 大正八年三月     福岡県小倉師範学校卒業
 一 大正十一年八月    文検合格
 一 大正十四年四月    鹿児島第一師範学校教諭
 一 昭和十一年四月    鹿児島師範学校教授
 一 昭和二十年四月    鹿児島県書道会会長
 一 昭和二十五年四月   鹿児島大学助教授
 一 昭和三十三年十一月  南日本文化賞受賞
 一 昭和三十七年二月   鹿児島大学教授
 一 昭和三十八年三月   鹿児島大学定年退官
 一 昭和四十二年十一月  鹿児島県民表彰を受く
 一 昭和四十四年十一月  勲三等瑞宝章を受く
 一 昭和五十年十一月十五日 永眠 行年七十八才
 
          題字 川上南冥
          略歴 馬場啓彰
 

2008年6月24日

甲突河畔のモニュメント 高麗橋 増山俊春 はばたき

PICT0117.JPG 増山俊春  1946 東京に生まれる 1970 東京造形大学彫刻科卒業 1972 東京芸術大学大学院彫刻科修了 1973 東京芸術大学研究科修了 舟越保武に師事 1980 昭和会展招待出品(日動画廊) 1981 昭和会展林武賞受賞(日動画廊) 1987 個展(ギャラリーせいほう) 1988 個展(札幌・三越、松坂屋本店) 1989 北海道羅臼町役場に「あやとり」設置 鹿児島市甲突川畔「はばたきI,II」設置

http://www.seiho-sya.co.jp/artists-pages/t_masuyama/t_masuyama_top.htmlでは,作品も販売されてますが,,,高い・・・


2008年6月23日

甲突河畔のモニュメント 戦災復興記念塔

sensai2.jpg さて,この記念塔,赤いつばの剣が天に向かっている,と思ったのだが,爆弾が落ちて下が火事,ともみえる・・・  でも,戦災復興だから,火事はおかしい・・・

 作者の名は見えない・・・

 なお,下部の赤い部分は,叩くとぽこぽこと音がする・・・

 補強が必要かもしれない・・・


戦災復興都市計画(Wikipedia)

戦災復興都市計画(せんさいふっこうとしけいかく)は、太平洋戦争後の日本において空襲を受けて破壊された都市の復興のために策定された都市計画である。

概要
 戦前の日本では大都市都心部でも木造建築物が多く存在し、不燃化が非常に立ち遅れていた。
 そのため太平洋戦争においてアメリカ軍は「紙と木でできた」日本の都市への攻撃方法として、焼夷弾による空襲を採用した。
 この焼夷弾による空襲を受けた都市の多くは灰燼に帰し、文字通り焼け野原となった。
 戦後GHQによって解体されるまで都市計画を所管していた内務省では、空襲による壊滅的打撃を一種の好機として捉え、災いを転じて福となすべく全国の戦災115都市の都市基盤の近代化のため、都市計画の策定を終戦の直前から始めた。

戦災復興都市計画の策定に至るまで
 近代以前の城下町の面影を多く残す日本の都市は、近代化された後のインフラ整備が立ち遅れていた。
 また都市住民の間に「都市は周辺地域全体の産業・文化に対しても強い影響力を持つため、都市は周辺地域全体に対して責任を果たさなければならない」という考え方も生まれなかったため、住民たちは都市インフラの整備による周辺地域も含めた都市圏全体の発展よりも、自己の利害のみを追求することが多く、近代以前の道路網などがそのまま残されていた。

戦災復興都市計画の策定
 日本全国の主要都市が太平洋戦争の空襲により焦土と化した。
 空襲被害は、215都市、面積64500haに及び、日本の主要都市は壊滅的な打撃を受けた。
 終戦の直前、当時の内務省国土局計画課長で、戦後運輸大臣を歴任した大橋武夫は、内務省のスタッフに対して戦災復興都市計画の立案開始を命じた。
 内務省は終戦とともに戦災地復興計画基本方針を主要都府県に内示する。
 復興都市計画策定では、2段階に分けて、第1回は青森、水戸、宇都宮、前橋、伊勢崎、長岡、甲府、岡山、長崎、佐世保、下関、八幡、鹿児島などで、第2回は広島、呉、千葉、銚子ほかに中央から職員の派遣がなされたほか、疎開跡地を公共用地として確保するための都市計画決定を指示し、戦災復興事業に影響しないように建築抑制を行うこととした。


復興組織の立ち上げ
 1945年11月5日、事業を推進するために内務省から独立して省と同格の戦災復興院(計画・土地・建築・特別建設の4局)が設立され、物資統合の担当を行う経済安定本部(経済企画庁の前身)とともに計画推進の中心を担った。
 戦災復興院は大橋武夫の考えによる。戦前のインフラ行政は一元化されておらず、例えば住宅行政は、内務省社会局から厚生省住宅課が担当するなどしていた。
 そのため復興院設置の際に住宅行政などを旧都市計画・防空行政の建築行政と合わせ、非戦災都市をも含めて担当する建築局(後に住宅局)とするなどし、各省庁に分かれていた関連部局を戦災復興院に全面移管した。
 経済安定本部は総務長官に就任し、後年左派社会党で書記長を歴任した和田博雄をはじめ、戦前の革新官僚が再登板する。
 このため、戦後経済復興の政策プランは満州国の計画経済や企画院による戦時物資動員計画をもベースとしているので、大半が革新官僚と労農派の合作であるとみなされてもいる。

 戦災復興院総裁に就任した小林一三は、地方自治の観点から、戦災復興事業を国の事業として執行することを認めず、自治体執行を強く主張した。
 五大都市も市施行(一部の都市は県施行)になり、予算配分も東京一極集中を避けようと地方都市に優先して配分された。
 越澤明はその著書の中で、小林の地方自治の主張は理念としては正しいのだが、自治体の首長や地方議会が都市復興にあまり熱心でない場合は問題が生じると指摘している。
 事実、首長や都市計画関係者の熱意の差が戦災復興の進捗に直結することとなり、小林の判断は禍根を残した。
 内務省は1948年に解体され、建設部門(国土局)は戦災復興院と合併し、建設院(官房と総務、水政、地政、都市、建築、特別調達の6局)を経て、同年7月に建設省(現国土交通省、当時は官房と総務、河川、道路、都市、建築、特別建設の6局)へと改組された。

 戦災地復興基本方針の翌年9月には特別都市計画法が制定され、各都市ではこの戦災地復興基本方針や特別都市計画法を元に、それぞれの都市の実情を踏まえた復興計画が策定されていく。
 そして既成市街地を中心に行われたこの事業によって、名古屋、仙台、広島、豊橋、福井、姫路など多くの都市で抜本的な都市構造の改造と、名古屋、広島の100m道路、仙台、堺、鹿児島、姫路、富山などの広幅員の並木道、都心の公園が実現した。


戦災復興都市計画の挫折とその影響
 戦災復興都市計画は、帝都復興によって開花し、国内のみならず外地や満州国の都市建設で磨き上げられてきた日本の都市計画手法・技術・エンジニア等を惜しみなく投入した、近代日本の都市計画の集大成とも言えるものであった。
 しかし全ての都市がその目的を果たすことができたわけではない。
 戦災による資材・資金・人手不足、都市計画などよりもその日を生き延びることで精一杯という住民の状況と、その上にGHQからの反対とドッジラインによる緊縮財政という巨大な壁に阻まれ、東京を始めとする多くの都市で計画が縮小・挫折した。
 特にGHQの反対とドッジラインによる緊縮財政は復興都市計画にとって致命的な痛手となった。
 GHQは復興都市計画には兎角冷淡であり、「まるで戦勝国の都市計画だ」と言って計画の縮小を求めていた。

特色
 戦災復興都市計画の特色として、その特徴としては土地区画整理事業を活用することとし、組合が施行を希望した場合はこれに国庫補助することを閣議で決定していることがあげられる。
 しかし制定された特別都市計画法では組合施行を法的に定めていないこともあって東京を例外としてほとんどの都市では組合施行は行われていない。
 また土地利用計画を策定することとし、街路について主要幹線は大都市では幅員50m以上、中小都市では幅員36m以上として、必要に応じ50?100mの広幅員道路にし駅前広場を設けること、緑地(公園、運動場、公園道路等)を市街地面積の10%以上とし、市街地外周に緑地帯(グリーンベルト)を設けることなどが盛り込まれ、非常に理想主義的色彩が強いということが挙げられる。
  戦災都市の防災対策と美観創出には緑地帯を重視し、戦災地復興計画基本方針に公園や公園道路ほか緑地を「系統的に配置せらるること」、「必要に応じて市街外周に於ける農地、山林、原野、河川等、空地の保存を図るため、緑地帯を指定し、その他の緑地と相俟って、市街地へのきつ入を図ること」と示している。
  このため、100メートル道路ほか、幹線道路も並木を創出されたほか、仙台市の勾当台公園や熊本市の辛島公園などのスペースや前橋市の広瀬川、芦屋市の芦屋川、神戸市の石屋川、新生田川、妙法寺川、広島市内の全河川、徳島市の新町川などの河川沿いの帯状緑地を計画し出現させる。
  河岸緑地帯について近年出現した姫路市の運河公園や浜松市の馬込川公園も戦災復興期の計画が元になっている。
  そして広幅員道路と緑地との有機的なネットワークなど、日本では今まで実現することが出来ないでいた政策が取り入れられているほか具体性も強く、道路幅員の具体的な指定や緑地面積の目標値などが基本方針の時点で織り込まれている。
  また、経済合理性一辺倒で計画がなされていないということも特色の一つである。
  高度経済成長期以降の道路計画が、ともすれば「自動車交通をいかに処理するか」ということだけを考慮して立案されていたのに対し、戦災復興で造られた道路の多くは、広い緑地帯と歩道を有し、市民の憩いの場となるように設計されている。
  アメニティを重視したインフラ整備が近年唱えられているが、その考え方は決してバブル期以降に現れた新しいものではなく、戦災で国土が荒廃していた復興期、もっといえば大正期に制定された街路構造令等すでに存在していた考え方であった。

 県庁所在地クラスの地方都市の多くで見られる、「中心部の駅前に中小規模の駅前広場があり、そこから30?50mの道路が真っ直ぐ延び、他の道路はその広い道路を基準に碁盤の目に近い形で配置がなされている」という街区パターンが、戦前に耕地整理等を行われていない都市の多くで戦災復興によって造られることになったため、その意味で戦災復興が戦後日本の地方都市像までをも形成したことにもなる。

 住宅復興についてはイギリスは全国民を対象に公営住宅を考えたが、日本では炭鉱住宅と、戦災復興院の建築職の大部分が勤務していた特別建設部が関与する米軍住宅・米軍施設の建設が主で、一般の住宅には手がつけられていない。
 また満州国で日本の都市計画研究者が試みた地券などの新しい考え方も、戦後の日本では公にされることがなく復興計画にとりいれられることは、ほとんどなかった。
 先の記述にもあるとおり、GHQや米軍は都市復興にほとんどかかわりを持たず、しかも区画整理の公共減歩は、補償なしでの財産の没収ではないか、とのクレームをつけている。
 これに対しては財産額として減価が無いということで当時は納得をさせている。
 広島を占領したオーストラリア軍は建築家のシャビィ少佐などが復興計画に若干の提案をしたりしたこともあったが、沖縄や横浜では広大な軍用地が収用され、戦後都市復興に大きな妨げとなる。

 また多くの都市が罹災したため、計画策定の技官の人員が足りず、一人の人間によって復興計画が策定された都市もある。
 そのため土木行政は、高度経済成長期のような河川・公園・道路・建築物とそれぞれ担当部署が異なる縦割り行政による個別の整備とは違い、河川と緑地、道路と公園といった異なるものが連続性を持った形で体系的にまとめ上げられている。
 この後に内務省は建設省となり、土木行政は深化したものの、高度経済成長期のインフラ整備においては、各部門ごとの横のつながりはかえって弱くなったといえる。
 こうした人員不足等も案じて復興院は1946年から各地の復興都市計画策定に建築家をも参加させ、彼らを復興院の嘱託として、各復興都市に主任と助手のペアで派遣した。
 このとき(1)計画図及び計画説明書(計画の基盤及案の内容)各2部を作り一部は市に残し一部は本院へ提出(2)地元の意見又は希望事項あれば本院へ提出(3)地元有識者への啓蒙 を依頼事項としている。
 派遣メンバーは土地の国有化などを叫び、戦後復興の都市や地域計画などに参加しようとした国土会に関係していた面々が中心で、実際東京大学建築学教室で都市計画の研究をしていた高山英華は日米開戦期には企画院の都市計画関連の仕事に関係し、それが戦後に立ち上げられる国土会のもとになってもいた。

 それでも、敗戦という状況下でいち早く復興事業に取り組む体制を整えることができたのは、戦時期に防空総本部の設置などにより都市計画のスタッフが強化されていたからであるし、また事業が割と円滑に進んでいるのも関東大震災後の震災復興事業等の経験があったことも指摘されている。
 防空緑地などの施策や防空都市計画は戦後の復興も見据えており、建物疎開も道路予定地を中心に行われた。
 しかし、ヨーロッパなどでは第一次世界大戦後の戦後復興と第二次世界大戦後のそれとで復興事業の技術が進歩したが、日本ではほとんど復興技術の変化が見られなかった。
 イギリスでは第二次世界大戦後の1947年に制定した都市計画法で開発権の国への帰属を規定する画期的な制度を提案し、その後、保守党と労働党の政権交代により土地政策に変化はあるものの、開発を行うには許可が要るとの原則が残された。
 しかし、日本ではこのような土地政策に対する本格的な制度改革は行われなかった。

鹿児島新生甲突川と五大石橋http://www.js.yamanashi.ac.jp/~skita/kago.html
(資料・写真が秀逸)

2008年6月22日

甲突河畔のモニュメント 地神水神大集合

PICT0088.JPG なぜか,そこいら中の地神水神の大集合です。  元お地蔵様か道祖神のような方までおられます。  お顔がないのは,廃仏毀釈のせいでしょうか・・    下の井戸埋めなどを読むと,なんだか霊的な手続きを踏まないと,ものすごく危険な感じがするんですけど・・・  

井戸撥遣(埋め)について
鹿児島県:廃仏毀釈
九州・民俗仮面と祭りへの旅
身近にある信仰石造物(地神(じじん)さま)
「地神講」
すいじん [水神]


2008年6月21日

甲突河畔のモニュメント 牛島満大将 沖縄縣民斯ク戦ヘリ

ushijimat.jpg  矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らむ   秋を待たで枯れゆく島の青草は 皇国の春によみかつらなむ

 第32軍司令官 牛島大将は 昭和20年6月23日未明
 大東亜戦争最後の決戦場となった沖縄本島摩文仁の丘に立て 辞世2首
 を遺して自決 18万6千余名の将兵住民と共に玉砕された
 大将は 明治20年7月東京で誕生 この年厳父陸軍中尉牛島実満
 が病歿されたため 母堂竹子に抱かれ 幼い兄姉と共に帰郷して
 この地で成長された 甲突川畔の自然と母堂の大愛 薩摩伝統の
 郷中教育の中で 大将の誠忠仁恕豪放の人格は形成されたのである
 

「牛島満大将」で検索をかけて,トップで引っかかるのは,<平和問題ゼミナール・プレゼミ>である。
 ここには,鹿児島に視点を据えて沖縄戦を考える,として沖縄戦に至るまでの経緯が記述されている。
 
 南風語録 第7回もうひとつの「沖縄戦」にある「牛島軍司令官は、自分の自決にあたっての場所は、できるだけ人目につきやすいところを望んだ」との記述は,なかなか考えさせられる。
 
 琉球新報のコンパクト事典によると
 第32軍 (だいさんじゅうにぐん)
 日本陸軍は南西諸島防衛強化のため1944(昭和19)年3月22日、大本営直轄の沖縄守備隊として第32軍を創設した。
 戦局の進展に伴い逐次増強され、同年7月には4個師団、5個旅団を擁する強力な守備隊となったが、沖縄戦突入直前、台湾軍(第10方面軍)の配下に入り、第9師団が台湾に転出、補充もないまま持久戦術に転じ、45年6月23日軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将らは自決した。兵力は11万5000。
とある。


 昔私は,沖縄復興に尽力された,ある鹿児島県出身の代議士の事務所で,大将が打たれた次の電報を教えて頂いた。
 
一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄縣民斯ク戦ヘリ
縣民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

2008年6月20日

甲突河畔のモニュメント 噫壮烈 法亢盛孝君

PICT0074.JPG噫壮烈 法亢盛孝君

陸軍少将正五位勲三等功四級大迫通貞閣下題額

男子既に四方の志を抱く東亜の天風雲急に功業期すべきなり況んや日満一体新秩序建設の雄図
大にして同じきに於いてをや満州国陸軍歩兵少校法亢盛孝君は小吉君の長子母は宇都氏元子明治四一年
十月二九日南林寺町に生る名山小学を経て荒田小学高二卒後大正十五年三月県立工業学校機
械科を卒へ職を鉄道に奉じ昭和三年四十五連隊に幹部候補生として入隊七年歩兵少尉に任じ
叙正八位六年満州事変勃発するや吉林鐵道守備隊教官として応聘満州国軍に投し八年上尉と
なり九年四月事変の功により叙勲六等賜瑞宝章十月大連陸軍特務機関に派遣十年中央陸軍訓
練所入所首席を以て卒業御前講演御賜時計拝受の栄を荷ひ十二年三月補軍政部軍事調査部部
員七月関東軍司令部事務嘱託となる偶ま禎満国境変迫る即特務を帯び死を賭し敵情を悉す二ヶ月○事
殆ど了せしも八月二十七日更に部下五名を率い秘を探りしに突如三方より凶悪なる共産匪百余の猛襲に遇ひ
直に部署に就き応戦せしが衆寡敵せず身に二弾を受け弾尽きて愛刀を揮い囲みを突きて奮進数匪を屠り力
闘屈せず遂に牡丹江省密山県老黒背東部付近に斃る年三十満廷悼惜任歩兵少校叙勲四等授柱国章
人其壮烈に感じ九月四日新京公会堂に葬り儀荘厳を極む君潤達沈毅貌雄偉友に交はりて信事を謀るや
懇夙に四方学舎に入り薬丸流の剣法に達す子弟を率いて誘導方あり舎風亦揚る遺骨の
帰○柩を舎に迎へ九月二十日告別の式を挙げ更に郡元の光塋に葬る性孝悌既に父を喪ひ母氏
家をなすを勧む君私ヵに期するあるも枉げて之を聴るす而も時局の急娶るに及ばず陣中葡萄酒一瓶
を購ひ齋し献ぜんとして果たさず空しく歿後の遺品となる惟ふに勇武事功世其人に乏しからず只敏才
宏○上下の信望を得親しむべく敬すべく多難興亜の局に任ずべき君の如きは盖匹稀なり予等交わる浅く知
る深し徳忘る可からず君や壮心一蹶可惜異域の土となるも一念常に邦国にあり同士相議して表旌を舎庭にと
す議ひ幸いに容れられ官亦許さる乃略応を叙し功烈を頌して後進感奮の資たらむを希うと云爾
昭和十四年四月
在満支同志一同

  
 四方学舎についてはこちら
 大迫通貞氏については
  満州国軍軍事顧問一覧によれば,軍政部顧問として 陸軍歩兵中佐 大迫通貞 の名が見える。
  昭和20年2月時点では,熊本師管区司令部鹿児島地区司令部(大迫通貞中将)とある。
  昭和18年段階では,第四十七師団長大迫通貞 23期とある。
  昭和14年当時の役職は不明
 なお,関係あるのかないのかわからないが,「大迫通貞」で検索をかけると,特務機関云々なんて話題がhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9623/7.htmlに出てくる。
 
 「法亢」は,鹿児島県実在名字によれば,「ほうが」と読むらしい。
 ところが,肝腎の法亢盛孝氏は検索にはヒットしない。
 法亢で検索すると,「伊地知正治が合伝流兵学を法亢宇左衛門に学ぶ」と出てくる。
 
 
 さて,肝腎の碑文ですが,話の前後は何となくわかるのだが,
 「而も時局の急娶るに及ばず陣中葡萄酒一瓶を購ひ齋し献ぜんとして果たさず空しく歿後の遺品となる」
の部分がよくわからないです。

 「枉げて母方の家を継ぐことにしたものの,時局柄娶ることが出来ず,(そのために買っていた)葡萄酒も遺品となってしまった」ということでしょうか?
 となると,葡萄酒を買ったのは本人と云うことになりますが,それを「齋し献ぜんとして」と表現するものだろうか?(「献」はともかく「齋」を人事に使うのだろうか)
 
 あと,「光塋」ってなんだろう。
 検索では,司馬光塋という(恐らく)中国の画家か何かの人しかヒットしないようなんですけど・・・
 
 えいいき[―ゐき] 0 【▼塋域】墓場。墓地。墓所。
とあるところをみると,「光」は美称のための付加字かな・・・

 さて,碑文中にも有るとおり,「勇武事功世其人に乏し」くはない。
 在満支同志一同の皆さんは, 歩兵少校にすぎない法亢盛孝氏のどの部分に共感してこの碑を建てたのだろうか・・
 普通に考えれば,「只敏才宏○上下の信望を得親しむべく敬すべく多難興亜の局に任ずべき君の如きは盖匹稀なり」がその理由に当たるのだろうが,美文ではあっても具体性に乏しく,共感には及ばない。
 顕彰碑の文言としては奇異に感じる「君私ヵに期するあるも枉げて之を聴るす而も時局の急娶るに及ばず」あたりに事情がありそうだが,秘すれば花,か・・・・。


 (註:○は,物理的に読めない字と能力的に読めない字の両方です・・・)
 (画像から文章を起こしたのですが,こんな字も読めないのか,って方,ご教示願えると有り難いです)

2008年6月19日

甲突河畔のモニュメント 8・6水害

PICT0035.JPG平成5年8月豪雨(Wikiから引用)

 平成5年8月豪雨(へいせい5ねん8がつごうう)は、1993年8月1日に鹿児島県姶良郡を中心とした地域を襲った集中豪雨いわゆる8.1豪雨(8.1水害)と、同年8月6日に鹿児島市を中心とした地域を襲った集中豪雨いわゆる8.6豪雨(8.6水害)の総称。
 鹿児島県内のマスコミ各社ではいわゆる8.6豪雨(8.6水害)のことを指すことが多く、同年9月の台風13号も「8.6水害のあった1993年の台風13号」と紹介される。


豪雨前後の状況
 1993年6月から7月にかけて、梅雨前線の影響により鹿児島県を含む九州南部各地で総降水量が1000mmを越え、土石流や浸水の被害が発生した。
 7月9日に九州南部地方は梅雨明けの発表が出されたが、1週間も経たずに再び梅雨前線が南下し、戻り梅雨が続いた。
 同年7月27日には台風第5号が大隅半島を縦断し、さらに同29日から30日にかけて台風第6号が九州の西側海上を通過し長崎県に上陸、各地に大雨を降らせた。
 7月27日から30日までの雨量は九州南部各地で100mmから300mmに達した。長期間の降雨により地盤が緩んでいたところに以下の集中豪雨が重なった形となった。

 8.6豪雨以後も天候不順が続き、その3日後の8月9日には台風7号が九州西海上を通過し、再び土砂災害を引き起こした。
 台風7号通過後は一時的に天気は回復したが、その後は再び前線が停滞し、九州地方は雨の降る日が多くなった。8月下旬は晴天に恵まれたが、7月9日の梅雨明け宣言は撤回され、結局は梅雨明けを特定することができなかった。
 そして、9月3日には大型で非常に強い台風13号が中心気圧930ヘクトパスカルの勢力で鹿児島県に上陸したため、再び大災害が発生した。


8.1豪雨
 1993年8月1日午後から鹿児島県姶良郡を中心とした地域で1時間あたり最大104mm(観測地点:溝辺町)の強い雨が数時間降り続いた。
 溝辺町(現在の霧島市溝辺町)の雨量は一日で450mmに達し、鹿児島県中央部の各地で死者23名を出した。
 各所で土石流が発生し、九州自動車道、国道10号をはじめ多くの道路が通行止めとなった。
 桜島サービスエリアの建物も土石流の直撃を受けた。
 日豊本線の国分駅-大隅大川原駅間は線路の盛り土が崩壊するなどの被害を受け長期間にわたって不通となり、バスによる代替輸送が行われた。
 鹿児島県姶良郡(現在の鹿児島県姶良郡及び霧島市)及び国分市(現在の霧島市国分)を流れる天降川が増水し、流域各所で被害が発生した。
 上流部の横川町(現在の霧島市横川町)中心部において244戸が浸水の被害を受け、中流部に点在する新川渓谷温泉郷の宿泊施設も被害を受けた。また、下流部に架かる新川橋と日当山橋が破損し通行止めとなり、いずれの橋もその後に架け替えられた。

8.6豪雨
 1993年8月6日午後から鹿児島市を中心とした地域で1時間あたり最大99.5mm(観測地点:郡山町)の強い雨が数時間降り続いた。
 鹿児島市の雨量は一日で259mmに達し、鹿児島市内を中心として死者48名、行方不明者1名を出した。
 この豪雨で水没した市内や竜ヶ水地区で土石流に巻き込まれ、土砂に埋もれて大破した電車の様子は新聞、テレビなどで大々的に報道された。
 鹿児島市中心部を流れる甲突川が増水し、江戸時代に架けられた甲突川五石橋のうち新上橋と武之橋が流失した。
 また、川からあふれた水により流域の約12000戸が浸水の被害を受けた。
 川沿いを通る国道3号は鹿児島市草牟田付近で深さ約2mの水に浸かり、鹿児島市小山田町付近も陥没するなどして長期間にわたって通行止めとなった。
 鹿児島市吉野町の花倉病院では裏山で発生した土砂崩れが直撃し、巻き込まれた入院患者と避難住民の15人が死亡する惨事となった。その後、花倉病院は1年に渡って休診となった。
 鹿児島市北部の竜ヶ水地区では約4kmの区間内に22カ所の土石流が発生し、この地区を通過する国道10号では約1200台の車が動けなくなり、ほぼ陸の孤島状態となった。
 孤立した人の中には土石流に巻き込まれ鹿児島湾に投げ出される人もいた。
 また、日豊本線の竜ヶ水駅で立ち往生した旅客列車が土石流に巻き込まれて大破したが、ほとんどの乗客は乗務員の指示により避難した後であった。
 住民と列車の乗客や車の運転者を含めた約2500人が周囲から孤立し、近隣の漁船と桜島フェリーによって海上から救出された[5]。国道10号はその後しばらく通行止めとなり、復旧後この区間には雨量計が設置され連続総雨量が200mm以上になると通行が制限されるようになった。
 日豊本線鹿児島駅-国分駅間は同年9月18日まで不通となり、加治木港からの船舶や、バスによる代替輸送が行われた。
 
 鹿児島の自然災害
鹿児島水害


 8・1水害の時,加治木町に住んでいた。
 崖崩れのおそれがある,ということで近くの中学校の体育館に避難したのだが,遊んでいる子どもたちをハイハイで追いかけていたうちの娘は,突然ハイハイをやめて,走り出した・・・驚いた・・・

 8・6水害の日は,鹿児島に遊びに行くつもりだった。が,重富あたりで,あまりの雨脚に嫌気がさして(ワイパーが役に立たない,側溝から水が溢れてどこまで道かわからない),途中で引き返した。
 翌日偵察に出かけたら,放棄された車で前に進めなかった・・・

 この水害の後,天文館の地下にあったなじみの店が軒並み廃業した・・・
 


 

2008年6月18日

甲突河畔のモニュメント 関谷 光生 カルテット

PICT0115.JPG 彫刻家  関谷 光生(せきや みつお) 苗字:関谷(せきや) 名前:光生(みつお) 性別:男 生年:1947年(昭和22年丁亥) 年齢:60歳 時代:昭和?平成 地域:日本 生地:東京都 分野:彫刻家 国画会々員 得意:ブロンズ 木 石

これくらいしかヒットしませんねぇ・・・
この方の名前で画像検索をかけると,なぜか松尾芭蕉がいっぱい出てくるんです・・・


2008年6月17日

甲突河畔のモニュメント 佐藤忠良 帽子の像

PICT0071.JPG

 この方も,検索でたっぷり出てきます。

佐藤 忠良(さとう ちゅうりょう、1912年 - )は日本を代表する彫刻家の一人。
新制作協会彫刻部創立会員。生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現している。
福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけている。
桑沢洋子の親友でもあり、教育者として東京造形大学において創立より多数の後進の教育に携わる。
女優佐藤オリヱの父である。

1912年 - 宮城県に生まれる。6歳で父が死去したため幼少期は母の実家である北海道夕張ですごす
1925年 - 旧制・札幌第二中学(現北海道札幌西高等学校)に入学
1932年 - 上京し川端画学校にて学ぶ
1934年 - 東京美術学校彫刻科入学
1939年 - 美校卒業後舟越保武等と新制作派協会彫刻部の創設に参加する
1945年 - 1948年までシベリア抑留に遭う
1954年 - 第1回現代日本美術展佳作賞受賞
1960年 - 第3回高村光太郎賞受賞
1966年 - 東京造形大学創立と共に教授に就任
1974年 - 第15回毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞受賞、翌年には第6回中原悌二郎賞受賞、第3回長野市立野外彫刻賞受賞
1977年 - 第5回長野市立野外彫刻賞受賞
1981年 - フランス国立ロダン美術館で個展
1986年 - 東京造形大学名誉教授
1989年 - 朝日賞受賞
1990年 - 佐藤忠良記念館設立(宮城県美術館内)
1992年 - 第41回河北文化賞受賞

代表的な作品
『群馬の人』(1952年)
『蒼穹』(1977年)
『夏の像』(1977年) - 幣舞橋(釧路市)「四季の像」の一つ。
『若い女の像』(1984年)
『帽子』シリーズ など。

関連人物
笹戸千津子 - 彫刻家。「帽子」シリーズのモデル。

 う?ん,モデルがいたんですねぇ,それもシリーズもの・・・
 外のも見てみたいもんですが・・・
 甲突川の彫刻は,パンツ一丁で帽子をかぶって威張っている少女の像で,たしかに,「生き生き」であるとは思うんですけど(気品,じゃないな・・気位,か)・・・
 なんかおしゃまな女の子が,ご自慢の帽子でポーズをとってる,ってかんじ・・
 魔女の宅急便の女の子が少し大きくなったら,こんな感じかなぁ・・
 
 帽子 夏
 榎本武揚・顕彰碑・騎馬像
 二歳
 帽子
 「佐藤忠良記念館」
 
 おっと,帽子の像ここにもありました。
 ここは仙台市にあります宮城学院女子大学。

 まったくおなじです。

 このブログによると,「1986年の作品で,8点鋳造されており,他には,水戸市常陽芸文センター,鹿児島市甲突川河畔緑と彫刻の道等に設置されている。」とのことです・・・

 買ってきたのかな・・・
  
 

2008年6月16日

甲突河畔のモニュメント 舟越保武 渚

PICT0096.JPG   この方もwikiがあります。    舟越 保武(ふなこし やすたけ、1912年12月7日 - 2002年2月5日)  佐藤忠良と共に戦後日本を代表する彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。  東京藝術大学名誉教授。文化学院出身で画家の妻道子との間に子供6人。  次男の舟越桂や三男の舟越直木も彫刻家として活躍中。  1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。     父親が熱心なカトリック信者だった。     県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中(同期に松本俊介)に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す。  1939年 東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友情を培うことになり、二人は戦後の日本彫刻界を牽引していく。     卒業後、独学で石彫をはじめ、数々の作品を発表して注目される。  1950年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、自らも洗礼を受けてカトリックに帰依、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。  1967年から1980年の間、東京芸術大学教授を勤める。  1986年、東京芸術大学名誉教授  1987年、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始。死の直前まで左手で創作を続けた。  2002年2月5日、多機能不全で死去。89歳。

 他のページでは,
 船越保武は、カトリックの洗礼をうけ、宗教的な作品が多い人ですが、大理石彫刻家としても知られています。
 この婦人像の肌理(きめ)の詰め(なめらかさ)は、大理石彫刻をこなした人でないと出せないものなのです。(十和田市立中央病院所蔵の婦人像のこと)
 人間は、その重さに耐えぬほどの着衣(社会的存在としてのポーズも含めて、いろいろと外面を装い、着こんで)身を包んでいますが、その全てを取り去っても、その人の何たるかを知ることはできません。
 その内奥にあるものをさぐりあてようとするのが、彫刻家だとも言えます。
のだそうです。

 で,この像は,大人の女性がワンピース1枚で立っている・・・
 
御堂筋彫刻ストリート 道東の四季・春(このブログ,写真がうまい!!) 
原の城(代表作) 
 

2008年6月15日

甲突河畔のモニュメント 桑原巨守 春のよろこび

PICT0102.JPG

3人のワンピースの少女が裸足ではしゃいでる瞬間を切り取った,という感じの彫刻ですね。

おっと,この方はwikiがありました。
(くわはら・ひろもり 1927年 - 1993年8月26日)は、日本の彫刻家。女子美術大学名誉教授。
群馬県沼田市出身
具象彫刻の第一人者と評され、群馬県渋川市に桑原巨守彫刻美術館がある。

1949年 東京美術学校彫刻科卒業
1964年 二紀展に初入選
1966年 二紀展同人賞受賞
1971年 女子美術大学教授に就任
1975年 第29回二紀展で菊華賞受賞
1979年 ブルガリア政府「花と少女」を購入
1982年 第2回高村光太郎大賞展で美ヶ原高原美術館賞受賞
1983年 第37回二紀展で文部大臣賞受賞
1989年 第43回二紀展で宮本三郎賞受賞
1993年 女子美術大学名誉教授となる 

 また,桑原巨守彫刻美術館のページでは,
 群馬の豊かな自然の中で育った桑原巨守は、粘土で制作される塑造では困難とされた軽やかな風に舞うようなコスチュームなど、様々な自然を表現することに挑み続けました。
 当美術館ではそんな桑原巨守の作品を目で見るだけではなく、触って観賞することもできます。
といってますが・・・

 こちらのモニュメントは,さわるにはちょっと台が高すぎます・・・
 確かに,ワンピースはひらひら感たっぷりですが,ちょっとずんだれているような・・・
 髪もやんかぶっているような気がするんですけど・・・ね・・
 
 

2008年6月14日

甲突河畔のモニュメント 板橋一歩 陽光を浴びて

PICT0085.JPG板橋一歩

 検索すると,結構ヒットするのだが,具体的に見ていくと,まとまった形での情報は意外と少ない方です。
 「板橋一歩の年譜と作品目録」なんて本が,富山大学にあることはわかるんですが,中身まではアップされていません。
 とはいえ,こんな本があるくらいですから,きっと高名な方なのでしょう・・・
 
 
 Taku-Taku日記によると,蒲生町出身で,既に故人のようです。
 
 検索結果を拾い読みすると,二紀会理事だったこと,鹿児島市立図書館に,板橋一歩彫刻作品集 (書誌番号:4010113725 出版年月:1975 分類記号:717)があること,砺波市(何県だ?それ以前に,何と読むんだろう?)で修行(?)していたこと,などがわかります。
 
 と,検索結果を渡り歩いていたら,甲突川河畔というページを発見!!
 
 こちらは,パブリックアートという観点から,芸術的に切り込んでおられます。
 高校の美術の先生のページです。

 鹿児島市の部分を見てみると
(1)鹿児島市 [甲突川河畔(約60KB)]
 明治の偉人達を多く輩出した鹿児島県は、市内にその顕彰を意図する、肖像的野外彫刻も相当数みかけた。
 1984年より推進してきた「彫刻のあるまちづくり」事業は甲突河畔に8点を設置し、近年は「ロマンチック・オブジェ」事業に発展させ、現代彫刻を設置している。
 同市の特徴は、「彫刻のあるまちづくり推進委員会幹事会」を設け、都市計画部長を幹事長にし、企画調整課・文化課・公園緑地課等の課長を統括し、事務局を都市計画課内に置き、関係課内で問題点や課題が討議可能な体制になっていることである。
ということのようです。
 「討議可能」から,HPでの発信にまで進んでくれると,有り難いんですが・・・
 
 さて,肝腎のオブジェは息子が気に入りました。
 家族でランニングしている姿は,非常にわかりやすいです。
 息子も一緒に走って写真を撮りました。
 同じ目線の高さで見られるのもいいです。
 
 うちも犬がいると良いのになぁ・・・

余談ですが,板橋一歩彫刻作品集 - 32000円 だそうです・・・(古書です)

2008年6月13日

甲突河畔のモニュメント 伴彦四郎先生頌徳碑

PICT0073.JPG 伴彦四郎

 検索すると,トップで出てくるのは,探検家の伴彦四郎だが,ここは恐らく,薩摩琵琶の名手の伴彦四郎氏だろう。

 「薩摩琵琶」によると,
 池田甚兵衛の門人である妙寿の門下には、伴彦四郎、児玉天南、盲人伊牟礼寿長らがおりもっぱら古風を守って九州で活躍していた。
 なかでも伴彦四郎は名手として推賞され、その高弟に木上武次郎、永井重輝があり、木上の門弟には吉村岳城が出て東京で活躍した。
 今日では薩摩琵琶界は大きく分けて四派あり、永田錦心の系統を継ぐもの「錦心流」、錦心流以前の風を継ぐ「正派」、水藤錦穣の流れの「錦琵琶」、そして鶴田錦史の「鶴田流」。
 他にも独立した流れないし派を名乗る者もいる。
 それぞれの流派の特長は「正派」は質実剛健であり、「錦心流」は正派と比較すると 歌う要素が多く華麗であり、「錦琵琶」は歌の中に筑前琵琶や三味線音楽などの節回しを取り入れ 正派よりむしろ筑前琵琶に近い。「鶴田流」は、基盤となった錦心流などの琵琶歌の形式を守りながら、薩摩琵琶の器楽面を発展させて 所謂琵琶歌以外の楽曲も演奏する。
 ということらしい。
 
 出自来歴は,検索ではヒットしませんでした。

2008年6月12日

甲突河畔のモニュメント 佐多愛彦顕彰碑

PICT0068.JPG   佐多愛彦氏については,鹿児島市医報 第40巻第12号に,その一族も含めて詳しく述べられ,この碑の建立に立ち合われたとの記述もある。    これによると,  明治2年William Willisを招いて設立した赤倉病院ならびに鹿児島医学校は多くの人材を世に送り出したが,西南の役の勃発で閉鎖のやむなきに至った。  戦後残った酷い戦禍と悪疫に対して鹿児島県議会は医学校ならびに附属病院の設立を決議し,明治15年開校した。間もなく明治20年地方税支弁による医学校経営が禁止されるに及んで,翌21年最後の卒業生を世に送って再び鹿児島医学校は閉鎖した。  最後の卒業生の中に佐多愛彦がいた。  佐多は東京に出て帝国大学の病理学教室で病理学を学んだ。  帝国大学出身ではない最初の医学博士の学位を得たと伝えられる。  佐多愛彦はその後大阪医学校の設立に関わりその校長となった。  大阪医科大学,大阪帝国大学医学部と発展する礎石を築いたのである。 とある。

 この人は,佐多愛彦先生伝とか中間子研究の歴史的背景 - 湯川秀樹研究Wikiだとか,いくらでも検索でヒットするので,相当に活躍された方のようだ。
 
 さて,で,その顕彰碑なのだが・・・
 ご覧の通り,この碑は,2枚が前後に密着して建ててある。
 前の石版には,細かい字でその功績が一杯書いてあるのだが,細かすぎて,かつ改行も少なく字が多く,ちょっと読む気がしない・・・
 後の赤い石版には,「瑞雲祥烟」の文字と(おそらくは)馬の絵があるばかりだ。
 碑文の中には,どっかの国が感謝の意味で,画家をよこして肖像を描かせた,なんて記述もあるが,まさかこれではあるまい・・・
 
 「瑞雲祥烟」は,四字熟語としては成熟していないようで,検索をかけても,『酔古堂剣掃』にあるものくらい。
 
 意味から行くと,縁起の良い雲と煙,なのだろうが,果たしてこれで良いのやら・・
 更に,馬の絵・・(天馬かな・・麒麟か・・)
 
 この碑は,最初からこの構造なのだと思うのだが,どうもこの2枚,調和していないように思える(赤い方にも署名らしきものがあるのだが,読めない)・・・

 

2008年6月11日

甲突河畔のモニュメント 木島冷明 歌碑 山茶花

waka.jpg 山茶花創刊40周年を記念して建立された,とある。

碑にある木島冷明氏は,検索すると
隼人―歌集 (1963年) てのがあるが,おっと,5300円もする・・・

ほかには,潮音百人百首に
 ゆきひらにたきつぐ粥は栗粥の妻がこのみの雪の日のかゆ(木島冷明)
が出てくるが,出身経歴等はヒットしないようです・・・

歌誌「山茶花」の方は,みやざきの101人によると,宮崎県高鍋町出身の安田尚義の稿で,
 旧制鹿児島第一中学校に勤め、以来30年間鹿児島県教育界にあった。
 子弟の教育はもとより、皇族や要人の来県の都度、史蹟主事として説明の大役を果たした。
 また、歌誌『山茶花』の創刊主宰、太田水穂の『潮音』の選者などを通して多くの歌人を育てた。
との記述があるので,恐らくこれでしょう・・

 これでいくと,木島冷明氏は,山茶花か潮音かはわからないが,安田尚義氏の弟子と言うことでしょうか・・
 歌集の名から推測するに,鹿児島にゆかりの方とは思うが・・・
 
 歌は,
  朝東風に緋の大傘のたわむなり
      祇園会はるる鹿児島の夏(冷明)
 とあります。
 
 "おぎおんさあ"は清水町の八坂神社の祇園まつりで、メインはご神幸行列。
  傘・鉾(ほこ)、稚児花かご、大人みこし、子供みこし等が練り歩きます。

  エネルギッシュな鹿児島の夏を詠んだ歌,ということでいいですか・・・
  (にしては,書体が素敵に流暢で,たおやめぶりなんですけど・・・)
  
 さて,木島冷明氏は,女性なんでしょうか・・
 (潮音百人百首の歌では,男だと思ったんですけど・・・)
 

2008年6月10日

甲突河畔のモニュメント 明治維新の母と子供達

isinnnohahako.jpg  これはおなじみ,高見橋の欄干にいる子供達と下流側からそれを見守る和服のご婦人です。

 題は,「明治維新の母と子供達」
 で,下流側の和服のご婦人は,上流側で遊んでいる子供達のお母さんだったんですね・・

 遊ぶ子供を見守る姿としては,ちょっと顔立ちが凛々しすぎるというか目に力がありすぎるというか,「ご婦人よ,大志を抱け」みたいな感じがするんですけど・・・

 モニュメントのそれぞれにサインがあるのですが,田中氏と宮里氏は陶芸家でのヒットはあるものの,確証は得られず,屋田氏はヒットしませんでした・・・


 さて,この題は,モニュメントに書いてあるわけではないんですが,楠元香代子氏を検索していて,次の資料を見つけた次第・・・


 楠元香代子
 崇城大学芸術学部教授
 東京学芸大学大学院教育学研究科美術専攻修了
 日展特選(1982、'83)
 日展会員賞(2000)
 白日展吉田賞
 日展審査員/日展会員/白日会会員
 明治維新の母と子ども達
 四季の詩

 鹿児島大学や女子短の講師をされていたようで,桜島の「林芙美子」もこの人の作品だったんですねぇ・・・(まだ見てないけど・・・)
 あと丹下うめ胸像とか(山形屋のそばに建ってなかったかしら・・・)


http://www.sojo-u.ac.jp/sitemanage/contents/attach/487/2007154.pdf

 追加:国分出身だったんですね・・
 こちらに作品集があります。
 http://kirishima.dolphin-miyako.net/art/kayoko.kusumoto.html

2008年6月 9日

甲突河畔のモニュメント 平田橋 山本正道作 こだま 思い出

kodamaomoide.jpg  平田橋の欄干近くに,上流下流で向かい合って設置してある,「こだま」と「思い出」  しかし,ざっと見たところ,作者の名が見あたりません・・・

 「思い出」「彫刻」で検索してみたところ,春日部にも,全く同じと思えるモニュメントがあるようです。
 これで作者が判明しました・・・
 
 
 大変高名な方のようで,http://www.geidai.ac.jp/staff/fa023j.htmlによると,
 1941 京都市生まれ
 1965 東京芸術大学美術学部彫刻科卒業
 1967 東京芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了
 1968?71 イタリア政府給費留学生としてローマ美術学校、P・ファッツィーニ教室で学ぶ
 1978?79 フルブライト芸術部門交換研究員として渡米
 1980 東京芸術大学美術学部彫刻科講師、'86助教授
 1995? 東京芸術大学美術学部彫刻科教授
ということのようです。

検索で出てきた作品は,
森と少女(誕生・成就)」
思い出
追憶
赤い靴

外にもまだまだありますが,こうして一連の作品を見ると,キーワードは「童心」ですか?
 (「追憶」が訳がわからんけど・・・)
 
 で,頭の出っ張りは,髪型なんでしょうか・・?
 

2008年6月 8日

甲突河畔のモニュメント 大久保利通像(裏)の御者と馬車

ookubouma.jpg  さて,大久保利通像について検索していく中で,浜畑賢吉氏のブログに,「大久保利通公 銅像秘話」という記事があり,  (紀尾井坂での暗殺では,)御者も馬車を引いていた馬も一緒に殺されている。  公の墓には御者も並んで埋葬されたのだが、何と馬までも一緒だった。  青山墓地で動物の埋葬は「忠犬ハチ公」とこの馬だけらしい。  そして、鹿児島にある「大久保利通像」を後ろから見ると、その馬と御者の絵が彫られているそうである。 との記述があった。    えっと・・ほんとですか・・・今まで聞いたこと無いんですけど・・・  高一の娘に聞いてみたら,「何年あの道通って塾に行ってると思ってるの!!」ということでした・・・  知らないのは私だけか??

 というわけで,早速次の日,デジカメをもって通勤がてら確認に行ったのですが・・・・

 ない・・・

 ・・あ,ありました・・・が・・・
 ・・・老眼の遠近両用メガネと,ポケットタイプの3倍ズームデジカメでは,ちょっと確認できません・・・
 なんかでこぼこがある,位で・・・

 で,翌日8倍ズームの一眼タイプを持ち出して,撮ってみたのが右の画像です。

 ああ,靴の下の台座からにょっきりと生えたように彫ってあるわけですな・・
 ・・・あんな処におかれても,普通気がつかないと思うが・・・

 下の鹿児島裏観光(写真あり)へのコメントによれば,「この馬は確か、大久保が暗殺されたとき、逃げようと思えば逃げられたのに最後まで一緒にいて殺された、御者と馬だったと思います。大久保像を制作した中村晋也さんが、このエピソードを知ってて、この部分は無償で付け加えて作ったと、何かで読んだ記憶があります。」
のだそうです。

歴史の本に出てこない大久保利通の話 ?曾孫・利泰(としひろ)氏講演会?
2008-05-14 大久保利通という漢の生き様
紀尾井坂の変(Wikipedia)
鹿児島裏観光(写真あり)


甲突河畔のモニュメント 大久保利通像

PICT0045.JPG ああ,この人を忘れてはいかんですね・・・


大久保利通は 幕末動乱の際 西郷隆盛と共に倒幕運動の中心となって 王政復古を実現
ついで新政府に入り版籍奉還 廃藩置県を断行
欧米巡遊の後 参議内務卿として地租改正 殖産興業政策等を推進 
近代日本の基礎を確立した
新生日本の激動時代に 進んで難局に当たってたじろがず 
事を処するに公平清廉で「為政清明」の語はよくその信念を物語る

昭和54年9月26日
大久保甲東百年記念顕彰会

題字 鎌田要人
制作 中村晋也


 不思議なんですが,この人の像は,松方正義と違って,顔がよく見えるんですよね・・・
 体型の問題かしらん・・・

2008年6月 7日

甲突河畔のモニュメント 緑の翼

PICT0036.JPG

 このモニュメントは,新西田橋のたもと,いつも木市をやってる公園の中にあります。
 通勤途上に,必ず目にするのですが,このモニュメントの題は,「緑の翼」です・・・

 私には,バナナの房,ビーナス誕生のでっかい貝,食いちぎったらっきょうの残り半分・・・・にしか見えないんですが・・・

 息子は,くぼんだ中がどうなっているのかが気になるようで,登坂を試みるのですが,ちょっとムリです・・

 「緑の翼」で検索をかけると,どっかのサッカーチームが,「みどりの翼」だと,どっかの投資ファンドがヒットします・・・

 モニュメントの色は白いし,形は貝だし,なぜ「緑の翼」なんだろう・・・


竹 道久

 1948年鹿児島に生まれる。
 1980年東京芸術大学大学院修了後、南日本美術展で鹿児島市長賞、優秀賞と連続入賞し、1982年第4回パリ賞を受賞する。
 翌年、鹿児島県海外派遣美術留学生として1年間フランスに留学し、帰国後、滞欧作品展を鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催する。
 彫刻の素材としては石やブロンズを用い、野外作品を主とした制作、発表を続けている。

 主な作品
 「語らい」(鹿児島国際ジャングルパーク)
 「風の道標」「想」(長島美術館)
 「憩い」(鹿児島市健康の森公園)
 「ひだまり」(霧島アートの森)
 新西田橋モニュメント「緑の翼」(鹿児島市甲突川)
 有吉佐和子文学碑「私は忘れない」(黒島・三島村大里)
 里村村制100周年記念碑「里の風」(甑島・里)
 熊襲の穴モニュメント「神々の想い」(隼人町妙見温泉)
 等がある。
 現在 二科会会員 南日本美術展委嘱作家 県立甲南高等学校美術教諭

だそうです・・・
http://www.npo-panda.jp/panda-fureru-sakuhinten/panda-fureru-sakuhinten-01.html

 あと,
ひだまり(霧島アートの森)
なんてのが,検索にかかります。


2008年6月 6日

甲突河畔のモニュメント 木村探元生誕の地

tangen.jpg

 さて,甲突河畔のモニュメントを,インターネットの情報のみを利用して読み解いていこうと思います。

今回は,平田橋の国道側のたもとにある,木村探元生誕の地の石碑

看板にもありますが,
 江戸中期の画家。薩摩生
 名は守広・時貞、通称は村右衛門、別号を大弐・三暁庵
 江戸に出て狩野探信に学ぶ。
 島津家に仕える。
 その後禁裏に召され、法橋に叙せられた。
 狩野探幽・雪舟に私淑し、洒脱で高趣な室町風水墨画を能くした。
 画論『三暁庵談話』等がある。明和4年(1767)歿、89才。
だそうです・・・

 検索してみると,Yahooオークションなどがありました。

 私でも買えるかも・・・

あと
『見事(みごっ)探元!木村探元 ?狩野派の伝統に雪舟の水墨画を盛る?』
指宿白水館くつろぎ美術館
など・・・

2008年6月 5日

甲突河畔のモニュメント 歓迎オリンピック聖火

orin.JPG

 このモニュメントは,新上橋のたもと,というより,国道10号をまたがる鉄橋の橋脚に張り付いています。

 当時の方の記事はこちらまたこちらも参考になります。

 前段のブログでは,当時のリレー選手の横顔が,また後段のブログでは,その頃の情勢が忍ばれます。

 建立者は,鹿鉄OB同志会と新上橋電車通通会になっています。
 鹿鉄は,どうやら「(国鉄時代の)鹿児島鉄道局」のことのようで,検索をかけてみると,硬式野球の社会人チームの話題でヒットします。

 きっと聖火ランナーの中に,高名な選手がいたんでしょうね・・・
 

2008年6月 4日

甲突河畔のモニュメント 鶴尾橋 南 安廣作 「翔」 「風3」

minamiyasuhiro.jpg  さて,せっかく息子と撮り溜めた甲突河畔のモニュメントなので,これらをインターネットの情報のみを利用して読み解いていこうと思います。  もちろん当地のモニュメントですから,関係者に聞けば,その由来や故事はわかる(のだろう)と思うのですが,それを,電脳だけでどこまで迫れるか,という企画であります。  まあ,半分は息子にやらせようかと思っているのですが,やつも結構忙しそうなので,どうなる事やら・・・

 まずは,鹿児島アリーナと国道10号を結ぶ鶴尾橋のモニュメント
 南 安廣作 「翔」 「風3」

 Webで調べてみたところ,南 安廣は,鹿児島出身の彫刻家
 二紀会という団体で活動されているらしい。
 生年,1948年(昭和23年)。
 ただ,イメージ検索では,ほとんどヒットはありません(2件のみ)

 鶴尾橋の女性は,ごらんの通り,いずれもシャープな気品を感じさせる現代的美人です。

2008年6月 3日

ねじれ国会の政治経済学 日経 経済教室

nejirekeizai.jpg

 知識の整理としておもしろそうな記事だったので,久しぶりにマインドマップしてみた・・・

 確かに,今後いかにして与野党が,妥協しつつ意思決定をしていく方法を学んでいくのか,裏返すと,教条的な物言いでいかにも政治家然と政局を目指す方法論に,いつまで国民がついて行くのか・・・

 昨今の政治状況は,なんだか自分の立場と意見の正しさを怒鳴りあってるだけのような気がする・・・

 久保亘大臣などは,よくこちらの話も聞いてくれたけど,その頃より教条的な方々が増えたような気がしているのは,私だけでしょうか・・・

2008年6月 2日

タスポの顔写真の必要性


taspo.jpg
 さて,どうして,たかが「たばこ」を買うのに,ICカード,それも顔写真付きのものが必要なのか(ちょっと大げさじゃないのか),その理由を知りたいと思って,あちこちさがしていたのですが,やっと公式サイトを見つけました・・・

 が,どうもこのページの記載は,(タスポ導入の)目的ではなくて,目的達成の手段の正当性を主張しているだけ,のような気がする・・・のは私だけ,でしょうか・・・


 詳しくは,「成人識別ICカード 「taspo(タスポ)」 公式サイト」を見て頂くとして,かえって疑問が増えてしまいました。

 余り整理されていませんが,論点としては,

1 顔写真の必要性は,「カード中央の『氏名』・『会員番号』・『顔写真』は、利用者を明確化することで本人への帰属性を高め、譲渡・貸与を防ぎ成人識別の厳格性を高める役割を担っています。」と説明されているが,肝腎の自動販売機は,ICチップの情報を読み取るのみで,写真と購入者の同一性を識別しているわけではないので,実質的な厳格化になっていない。

対面販売の際に,店員が,購入者と顔写真を見比べる(識別する)なら,意味がわかるのだが・・・

2 カードに,有効期限の記載があるが,これは,成人認証を行うサイド(社団法人日本たばこ協会(TIOJ)、全国たばこ販売協同組合連合会(全協)及び日本自動販売機工業会(JVMA))の方の期限なのだろうか。

まさか,「成人」という地位の期限ではないだろうから・・・

3 誰に商品を売るか,誰から買うかは,まさに私的自治の原則に関わる話だから,カードを持たない人には(成年であっても,自販機では)売らない,というのはありだと思うが,これが対面販売にまで及んだりした場合,消費者行政や基本的人権の観点から,どう考えるのだろうか。(成年外国人などはどうするのか,また米や塩だったら?)

4 カード導入の目的が,「未成年者の喫煙防止対策の一環」なのに,その負担を,成年者に求める政策的合理性は何か。(親権者等の保護者に求めるのならわかるのだが)

5 そもそも,たばこは,どのような権利関係で,誰が売っているのか。

自販機の所有者が,一斉に機種を導入した理由は何か。(社団法人日本たばこ協会等が強制できる理由がどこにあるのか)

 

なんだか,話の収拾がつかなくなってしまう気もしますが,ぼちぼちと勉強してみましょう・・・

2008年6月 1日

大勲位 松方正義

matukata.jpg

 最近小5の息子も何かと忙しく,遊んでいない。
 当方も,何かと気ぜわしい日々が続いていたのだが,何とか区切りも付いたので,久しぶりに息子と,甲突河畔をサイクリングした。

 目的地は,日銀鹿児島支店近くのガチャポン堂というおもちゃ屋・・・
 通勤途上,おもしろそうな店だな,とは思っていたのだが,あいにく開店時間が合わず,気になっていた。

 とはいえ,直行しては10分程度で着いてしまうので,甲突河畔のモニュメントを写真に撮る,ということで,息子を連れ出した。

 甲突河畔には,史跡・彫刻が結構な数あり,橋のモニュメントなど,結構凝ったものがあるのだが,写真は,なんと,本日お披露目の「大勲位 松方正義」である・・・

 息子と,
 「やけに大きいなぁ」
 「きっとまだ新しいんだ」
 「何した人だ?」
 「総理大臣と大蔵大臣をした人らしいよ」
などといいつつ碑文を読んでいたら,なんと,平成20年6月1日建立とある。

 横に片付けてあるオアシスは,きっと除幕式?やってたんだな・・・

 「銅像たてるときも地鎮祭ってやるのかな」
 「地鎮祭って何・・・」
 (実は対岸に地神水神の碑がまとめておいて,それも写真に撮っていた・・後日紹介します)

などといった会話を交わしつつ,息子の疑問
 「ちょーでけぇ・・偉人の銅像って高くつくる決まりなのかな・・・」

 そんなことはないと思うぞ・・・
 国会議事堂の銅像だって,そんなに高くはなかったし・・・

 でも,たしかに,もう少し顔の見やすい高さでもいいような気もするなぁ・・・

(追補)
 ガチャポン堂は,ガチャガチャがいっぱい店内に並んでいる図を想像していたのだが,予想に反し,「お宝鑑定団」に出しそうなモノを扱っているお店で,息子には高級すぎる(?)ようでした・・・(ブースカが数千円とか・・・ご存じですか?)

ライターガスの注入法

gasrighter.jpg パスポがないと,たばこが買いにくくなったわけだが,たかがたばこを買うために,顔写真付きのICカードを,数週間もかけて作るのもばからしいし,結局あの顔写真は,自動販売機が成人認識をしているわけでもないようで,どうも釈然としない・・・    というわけで,最近コンビニでカートン買いをすることが増えた。    カートンで買うと,大概,ライター1個おまけしてくれるわけだが,時々,販促品なのか,結構しゃれたライターをくれることがある。    で,使い捨てるのももったいないので,ガスを補充することにしたが,これがなかなかうまく入らない・・・    で,ネットで調べてみたら・・・  なんと冷蔵庫でライターを冷やしてから注入するんですと・・    いや,これは知らなかった・・・    理屈としては,温度が低い方が液化しやすい,ということだそうだ・・・    いや,ネットってすごいな・・