
さて,この記念塔,赤いつばの剣が天に向かっている,と思ったのだが,爆弾が落ちて下が火事,ともみえる・・・
でも,戦災復興だから,火事はおかしい・・・
作者の名は見えない・・・
なお,下部の赤い部分は,叩くとぽこぽこと音がする・・・
補強が必要かもしれない・・・
戦災復興都市計画(Wikipedia)
戦災復興都市計画(せんさいふっこうとしけいかく)は、太平洋戦争後の日本において空襲を受けて破壊された都市の復興のために策定された都市計画である。
概要
戦前の日本では大都市都心部でも木造建築物が多く存在し、不燃化が非常に立ち遅れていた。
そのため太平洋戦争においてアメリカ軍は「紙と木でできた」日本の都市への攻撃方法として、焼夷弾による空襲を採用した。
この焼夷弾による空襲を受けた都市の多くは灰燼に帰し、文字通り焼け野原となった。
戦後GHQによって解体されるまで都市計画を所管していた内務省では、空襲による壊滅的打撃を一種の好機として捉え、災いを転じて福となすべく全国の戦災115都市の都市基盤の近代化のため、都市計画の策定を終戦の直前から始めた。
戦災復興都市計画の策定に至るまで
近代以前の城下町の面影を多く残す日本の都市は、近代化された後のインフラ整備が立ち遅れていた。
また都市住民の間に「都市は周辺地域全体の産業・文化に対しても強い影響力を持つため、都市は周辺地域全体に対して責任を果たさなければならない」という考え方も生まれなかったため、住民たちは都市インフラの整備による周辺地域も含めた都市圏全体の発展よりも、自己の利害のみを追求することが多く、近代以前の道路網などがそのまま残されていた。
戦災復興都市計画の策定
日本全国の主要都市が太平洋戦争の空襲により焦土と化した。
空襲被害は、215都市、面積64500haに及び、日本の主要都市は壊滅的な打撃を受けた。
終戦の直前、当時の内務省国土局計画課長で、戦後運輸大臣を歴任した大橋武夫は、内務省のスタッフに対して戦災復興都市計画の立案開始を命じた。
内務省は終戦とともに戦災地復興計画基本方針を主要都府県に内示する。
復興都市計画策定では、2段階に分けて、第1回は青森、水戸、宇都宮、前橋、伊勢崎、長岡、甲府、岡山、長崎、佐世保、下関、八幡、鹿児島などで、第2回は広島、呉、千葉、銚子ほかに中央から職員の派遣がなされたほか、疎開跡地を公共用地として確保するための都市計画決定を指示し、戦災復興事業に影響しないように建築抑制を行うこととした。
復興組織の立ち上げ
1945年11月5日、事業を推進するために内務省から独立して省と同格の戦災復興院(計画・土地・建築・特別建設の4局)が設立され、物資統合の担当を行う経済安定本部(経済企画庁の前身)とともに計画推進の中心を担った。
戦災復興院は大橋武夫の考えによる。戦前のインフラ行政は一元化されておらず、例えば住宅行政は、内務省社会局から厚生省住宅課が担当するなどしていた。
そのため復興院設置の際に住宅行政などを旧都市計画・防空行政の建築行政と合わせ、非戦災都市をも含めて担当する建築局(後に住宅局)とするなどし、各省庁に分かれていた関連部局を戦災復興院に全面移管した。
経済安定本部は総務長官に就任し、後年左派社会党で書記長を歴任した和田博雄をはじめ、戦前の革新官僚が再登板する。
このため、戦後経済復興の政策プランは満州国の計画経済や企画院による戦時物資動員計画をもベースとしているので、大半が革新官僚と労農派の合作であるとみなされてもいる。
戦災復興院総裁に就任した小林一三は、地方自治の観点から、戦災復興事業を国の事業として執行することを認めず、自治体執行を強く主張した。
五大都市も市施行(一部の都市は県施行)になり、予算配分も東京一極集中を避けようと地方都市に優先して配分された。
越澤明はその著書の中で、小林の地方自治の主張は理念としては正しいのだが、自治体の首長や地方議会が都市復興にあまり熱心でない場合は問題が生じると指摘している。
事実、首長や都市計画関係者の熱意の差が戦災復興の進捗に直結することとなり、小林の判断は禍根を残した。
内務省は1948年に解体され、建設部門(国土局)は戦災復興院と合併し、建設院(官房と総務、水政、地政、都市、建築、特別調達の6局)を経て、同年7月に建設省(現国土交通省、当時は官房と総務、河川、道路、都市、建築、特別建設の6局)へと改組された。
戦災地復興基本方針の翌年9月には特別都市計画法が制定され、各都市ではこの戦災地復興基本方針や特別都市計画法を元に、それぞれの都市の実情を踏まえた復興計画が策定されていく。
そして既成市街地を中心に行われたこの事業によって、名古屋、仙台、広島、豊橋、福井、姫路など多くの都市で抜本的な都市構造の改造と、名古屋、広島の100m道路、仙台、堺、鹿児島、姫路、富山などの広幅員の並木道、都心の公園が実現した。
戦災復興都市計画の挫折とその影響
戦災復興都市計画は、帝都復興によって開花し、国内のみならず外地や満州国の都市建設で磨き上げられてきた日本の都市計画手法・技術・エンジニア等を惜しみなく投入した、近代日本の都市計画の集大成とも言えるものであった。
しかし全ての都市がその目的を果たすことができたわけではない。
戦災による資材・資金・人手不足、都市計画などよりもその日を生き延びることで精一杯という住民の状況と、その上にGHQからの反対とドッジラインによる緊縮財政という巨大な壁に阻まれ、東京を始めとする多くの都市で計画が縮小・挫折した。
特にGHQの反対とドッジラインによる緊縮財政は復興都市計画にとって致命的な痛手となった。
GHQは復興都市計画には兎角冷淡であり、「まるで戦勝国の都市計画だ」と言って計画の縮小を求めていた。
特色
戦災復興都市計画の特色として、その特徴としては土地区画整理事業を活用することとし、組合が施行を希望した場合はこれに国庫補助することを閣議で決定していることがあげられる。
しかし制定された特別都市計画法では組合施行を法的に定めていないこともあって東京を例外としてほとんどの都市では組合施行は行われていない。
また土地利用計画を策定することとし、街路について主要幹線は大都市では幅員50m以上、中小都市では幅員36m以上として、必要に応じ50?100mの広幅員道路にし駅前広場を設けること、緑地(公園、運動場、公園道路等)を市街地面積の10%以上とし、市街地外周に緑地帯(グリーンベルト)を設けることなどが盛り込まれ、非常に理想主義的色彩が強いということが挙げられる。
戦災都市の防災対策と美観創出には緑地帯を重視し、戦災地復興計画基本方針に公園や公園道路ほか緑地を「系統的に配置せらるること」、「必要に応じて市街外周に於ける農地、山林、原野、河川等、空地の保存を図るため、緑地帯を指定し、その他の緑地と相俟って、市街地へのきつ入を図ること」と示している。
このため、100メートル道路ほか、幹線道路も並木を創出されたほか、仙台市の勾当台公園や熊本市の辛島公園などのスペースや前橋市の広瀬川、芦屋市の芦屋川、神戸市の石屋川、新生田川、妙法寺川、広島市内の全河川、徳島市の新町川などの河川沿いの帯状緑地を計画し出現させる。
河岸緑地帯について近年出現した姫路市の運河公園や浜松市の馬込川公園も戦災復興期の計画が元になっている。
そして広幅員道路と緑地との有機的なネットワークなど、日本では今まで実現することが出来ないでいた政策が取り入れられているほか具体性も強く、道路幅員の具体的な指定や緑地面積の目標値などが基本方針の時点で織り込まれている。
また、経済合理性一辺倒で計画がなされていないということも特色の一つである。
高度経済成長期以降の道路計画が、ともすれば「自動車交通をいかに処理するか」ということだけを考慮して立案されていたのに対し、戦災復興で造られた道路の多くは、広い緑地帯と歩道を有し、市民の憩いの場となるように設計されている。
アメニティを重視したインフラ整備が近年唱えられているが、その考え方は決してバブル期以降に現れた新しいものではなく、戦災で国土が荒廃していた復興期、もっといえば大正期に制定された街路構造令等すでに存在していた考え方であった。
県庁所在地クラスの地方都市の多くで見られる、「中心部の駅前に中小規模の駅前広場があり、そこから30?50mの道路が真っ直ぐ延び、他の道路はその広い道路を基準に碁盤の目に近い形で配置がなされている」という街区パターンが、戦前に耕地整理等を行われていない都市の多くで戦災復興によって造られることになったため、その意味で戦災復興が戦後日本の地方都市像までをも形成したことにもなる。
住宅復興についてはイギリスは全国民を対象に公営住宅を考えたが、日本では炭鉱住宅と、戦災復興院の建築職の大部分が勤務していた特別建設部が関与する米軍住宅・米軍施設の建設が主で、一般の住宅には手がつけられていない。
また満州国で日本の都市計画研究者が試みた地券などの新しい考え方も、戦後の日本では公にされることがなく復興計画にとりいれられることは、ほとんどなかった。
先の記述にもあるとおり、GHQや米軍は都市復興にほとんどかかわりを持たず、しかも区画整理の公共減歩は、補償なしでの財産の没収ではないか、とのクレームをつけている。
これに対しては財産額として減価が無いということで当時は納得をさせている。
広島を占領したオーストラリア軍は建築家のシャビィ少佐などが復興計画に若干の提案をしたりしたこともあったが、沖縄や横浜では広大な軍用地が収用され、戦後都市復興に大きな妨げとなる。
また多くの都市が罹災したため、計画策定の技官の人員が足りず、一人の人間によって復興計画が策定された都市もある。
そのため土木行政は、高度経済成長期のような河川・公園・道路・建築物とそれぞれ担当部署が異なる縦割り行政による個別の整備とは違い、河川と緑地、道路と公園といった異なるものが連続性を持った形で体系的にまとめ上げられている。
この後に内務省は建設省となり、土木行政は深化したものの、高度経済成長期のインフラ整備においては、各部門ごとの横のつながりはかえって弱くなったといえる。
こうした人員不足等も案じて復興院は1946年から各地の復興都市計画策定に建築家をも参加させ、彼らを復興院の嘱託として、各復興都市に主任と助手のペアで派遣した。
このとき(1)計画図及び計画説明書(計画の基盤及案の内容)各2部を作り一部は市に残し一部は本院へ提出(2)地元の意見又は希望事項あれば本院へ提出(3)地元有識者への啓蒙 を依頼事項としている。
派遣メンバーは土地の国有化などを叫び、戦後復興の都市や地域計画などに参加しようとした国土会に関係していた面々が中心で、実際東京大学建築学教室で都市計画の研究をしていた高山英華は日米開戦期には企画院の都市計画関連の仕事に関係し、それが戦後に立ち上げられる国土会のもとになってもいた。
それでも、敗戦という状況下でいち早く復興事業に取り組む体制を整えることができたのは、戦時期に防空総本部の設置などにより都市計画のスタッフが強化されていたからであるし、また事業が割と円滑に進んでいるのも関東大震災後の震災復興事業等の経験があったことも指摘されている。
防空緑地などの施策や防空都市計画は戦後の復興も見据えており、建物疎開も道路予定地を中心に行われた。
しかし、ヨーロッパなどでは第一次世界大戦後の戦後復興と第二次世界大戦後のそれとで復興事業の技術が進歩したが、日本ではほとんど復興技術の変化が見られなかった。
イギリスでは第二次世界大戦後の1947年に制定した都市計画法で開発権の国への帰属を規定する画期的な制度を提案し、その後、保守党と労働党の政権交代により土地政策に変化はあるものの、開発を行うには許可が要るとの原則が残された。
しかし、日本ではこのような土地政策に対する本格的な制度改革は行われなかった。
鹿児島新生甲突川と五大石橋http://www.js.yamanashi.ac.jp/~skita/kago.html
(資料・写真が秀逸)