2008年6月12日

甲突河畔のモニュメント 佐多愛彦顕彰碑

PICT0068.JPG   佐多愛彦氏については,鹿児島市医報 第40巻第12号に,その一族も含めて詳しく述べられ,この碑の建立に立ち合われたとの記述もある。    これによると,  明治2年William Willisを招いて設立した赤倉病院ならびに鹿児島医学校は多くの人材を世に送り出したが,西南の役の勃発で閉鎖のやむなきに至った。  戦後残った酷い戦禍と悪疫に対して鹿児島県議会は医学校ならびに附属病院の設立を決議し,明治15年開校した。間もなく明治20年地方税支弁による医学校経営が禁止されるに及んで,翌21年最後の卒業生を世に送って再び鹿児島医学校は閉鎖した。  最後の卒業生の中に佐多愛彦がいた。  佐多は東京に出て帝国大学の病理学教室で病理学を学んだ。  帝国大学出身ではない最初の医学博士の学位を得たと伝えられる。  佐多愛彦はその後大阪医学校の設立に関わりその校長となった。  大阪医科大学,大阪帝国大学医学部と発展する礎石を築いたのである。 とある。

 この人は,佐多愛彦先生伝とか中間子研究の歴史的背景 - 湯川秀樹研究Wikiだとか,いくらでも検索でヒットするので,相当に活躍された方のようだ。
 
 さて,で,その顕彰碑なのだが・・・
 ご覧の通り,この碑は,2枚が前後に密着して建ててある。
 前の石版には,細かい字でその功績が一杯書いてあるのだが,細かすぎて,かつ改行も少なく字が多く,ちょっと読む気がしない・・・
 後の赤い石版には,「瑞雲祥烟」の文字と(おそらくは)馬の絵があるばかりだ。
 碑文の中には,どっかの国が感謝の意味で,画家をよこして肖像を描かせた,なんて記述もあるが,まさかこれではあるまい・・・
 
 「瑞雲祥烟」は,四字熟語としては成熟していないようで,検索をかけても,『酔古堂剣掃』にあるものくらい。
 
 意味から行くと,縁起の良い雲と煙,なのだろうが,果たしてこれで良いのやら・・
 更に,馬の絵・・(天馬かな・・麒麟か・・)
 
 この碑は,最初からこの構造なのだと思うのだが,どうもこの2枚,調和していないように思える(赤い方にも署名らしきものがあるのだが,読めない)・・・