2008年6月20日

甲突河畔のモニュメント 噫壮烈 法亢盛孝君

PICT0074.JPG噫壮烈 法亢盛孝君

陸軍少将正五位勲三等功四級大迫通貞閣下題額

男子既に四方の志を抱く東亜の天風雲急に功業期すべきなり況んや日満一体新秩序建設の雄図
大にして同じきに於いてをや満州国陸軍歩兵少校法亢盛孝君は小吉君の長子母は宇都氏元子明治四一年
十月二九日南林寺町に生る名山小学を経て荒田小学高二卒後大正十五年三月県立工業学校機
械科を卒へ職を鉄道に奉じ昭和三年四十五連隊に幹部候補生として入隊七年歩兵少尉に任じ
叙正八位六年満州事変勃発するや吉林鐵道守備隊教官として応聘満州国軍に投し八年上尉と
なり九年四月事変の功により叙勲六等賜瑞宝章十月大連陸軍特務機関に派遣十年中央陸軍訓
練所入所首席を以て卒業御前講演御賜時計拝受の栄を荷ひ十二年三月補軍政部軍事調査部部
員七月関東軍司令部事務嘱託となる偶ま禎満国境変迫る即特務を帯び死を賭し敵情を悉す二ヶ月○事
殆ど了せしも八月二十七日更に部下五名を率い秘を探りしに突如三方より凶悪なる共産匪百余の猛襲に遇ひ
直に部署に就き応戦せしが衆寡敵せず身に二弾を受け弾尽きて愛刀を揮い囲みを突きて奮進数匪を屠り力
闘屈せず遂に牡丹江省密山県老黒背東部付近に斃る年三十満廷悼惜任歩兵少校叙勲四等授柱国章
人其壮烈に感じ九月四日新京公会堂に葬り儀荘厳を極む君潤達沈毅貌雄偉友に交はりて信事を謀るや
懇夙に四方学舎に入り薬丸流の剣法に達す子弟を率いて誘導方あり舎風亦揚る遺骨の
帰○柩を舎に迎へ九月二十日告別の式を挙げ更に郡元の光塋に葬る性孝悌既に父を喪ひ母氏
家をなすを勧む君私ヵに期するあるも枉げて之を聴るす而も時局の急娶るに及ばず陣中葡萄酒一瓶
を購ひ齋し献ぜんとして果たさず空しく歿後の遺品となる惟ふに勇武事功世其人に乏しからず只敏才
宏○上下の信望を得親しむべく敬すべく多難興亜の局に任ずべき君の如きは盖匹稀なり予等交わる浅く知
る深し徳忘る可からず君や壮心一蹶可惜異域の土となるも一念常に邦国にあり同士相議して表旌を舎庭にと
す議ひ幸いに容れられ官亦許さる乃略応を叙し功烈を頌して後進感奮の資たらむを希うと云爾
昭和十四年四月
在満支同志一同

  
 四方学舎についてはこちら
 大迫通貞氏については
  満州国軍軍事顧問一覧によれば,軍政部顧問として 陸軍歩兵中佐 大迫通貞 の名が見える。
  昭和20年2月時点では,熊本師管区司令部鹿児島地区司令部(大迫通貞中将)とある。
  昭和18年段階では,第四十七師団長大迫通貞 23期とある。
  昭和14年当時の役職は不明
 なお,関係あるのかないのかわからないが,「大迫通貞」で検索をかけると,特務機関云々なんて話題がhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9623/7.htmlに出てくる。
 
 「法亢」は,鹿児島県実在名字によれば,「ほうが」と読むらしい。
 ところが,肝腎の法亢盛孝氏は検索にはヒットしない。
 法亢で検索すると,「伊地知正治が合伝流兵学を法亢宇左衛門に学ぶ」と出てくる。
 
 
 さて,肝腎の碑文ですが,話の前後は何となくわかるのだが,
 「而も時局の急娶るに及ばず陣中葡萄酒一瓶を購ひ齋し献ぜんとして果たさず空しく歿後の遺品となる」
の部分がよくわからないです。

 「枉げて母方の家を継ぐことにしたものの,時局柄娶ることが出来ず,(そのために買っていた)葡萄酒も遺品となってしまった」ということでしょうか?
 となると,葡萄酒を買ったのは本人と云うことになりますが,それを「齋し献ぜんとして」と表現するものだろうか?(「献」はともかく「齋」を人事に使うのだろうか)
 
 あと,「光塋」ってなんだろう。
 検索では,司馬光塋という(恐らく)中国の画家か何かの人しかヒットしないようなんですけど・・・
 
 えいいき[―ゐき] 0 【▼塋域】墓場。墓地。墓所。
とあるところをみると,「光」は美称のための付加字かな・・・

 さて,碑文中にも有るとおり,「勇武事功世其人に乏し」くはない。
 在満支同志一同の皆さんは, 歩兵少校にすぎない法亢盛孝氏のどの部分に共感してこの碑を建てたのだろうか・・
 普通に考えれば,「只敏才宏○上下の信望を得親しむべく敬すべく多難興亜の局に任ずべき君の如きは盖匹稀なり」がその理由に当たるのだろうが,美文ではあっても具体性に乏しく,共感には及ばない。
 顕彰碑の文言としては奇異に感じる「君私ヵに期するあるも枉げて之を聴るす而も時局の急娶るに及ばず」あたりに事情がありそうだが,秘すれば花,か・・・・。


 (註:○は,物理的に読めない字と能力的に読めない字の両方です・・・)
 (画像から文章を起こしたのですが,こんな字も読めないのか,って方,ご教示願えると有り難いです)