甲突河畔のモニュメント 牛島満大将 沖縄縣民斯ク戦ヘリ
第32軍司令官 牛島大将は 昭和20年6月23日未明
大東亜戦争最後の決戦場となった沖縄本島摩文仁の丘に立て 辞世2首
を遺して自決 18万6千余名の将兵住民と共に玉砕された
大将は 明治20年7月東京で誕生 この年厳父陸軍中尉牛島実満
が病歿されたため 母堂竹子に抱かれ 幼い兄姉と共に帰郷して
この地で成長された 甲突川畔の自然と母堂の大愛 薩摩伝統の
郷中教育の中で 大将の誠忠仁恕豪放の人格は形成されたのである
「牛島満大将」で検索をかけて,トップで引っかかるのは,<平和問題ゼミナール・プレゼミ>である。
ここには,鹿児島に視点を据えて沖縄戦を考える,として沖縄戦に至るまでの経緯が記述されている。
南風語録 第7回もうひとつの「沖縄戦」にある「牛島軍司令官は、自分の自決にあたっての場所は、できるだけ人目につきやすいところを望んだ」との記述は,なかなか考えさせられる。
琉球新報のコンパクト事典によると
第32軍 (だいさんじゅうにぐん)
日本陸軍は南西諸島防衛強化のため1944(昭和19)年3月22日、大本営直轄の沖縄守備隊として第32軍を創設した。
戦局の進展に伴い逐次増強され、同年7月には4個師団、5個旅団を擁する強力な守備隊となったが、沖縄戦突入直前、台湾軍(第10方面軍)の配下に入り、第9師団が台湾に転出、補充もないまま持久戦術に転じ、45年6月23日軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将らは自決した。兵力は11万5000。
とある。
昔私は,沖縄復興に尽力された,ある鹿児島県出身の代議士の事務所で,大将が打たれた次の電報を教えて頂いた。
一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄縣民斯ク戦ヘリ
縣民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ
