2008年6月25日

甲突河畔のモニュメント 乃木将軍婦人湯地氏誕生之地

yuji.jpg 乃木将軍婦人湯地氏誕生之地の碑  なぜか,台座のみで肝心の碑or銅像がない・・・

 実はこの碑の隣に,写真の「湯地中将生誕の地」の石碑がある。
 この石碑も,頌が記されていたであろう銘板がなく,石碑の裏も,削られたのではないか,と思われる痕がある(削りだしの石なのかもしれないが)。

 なんだか,事情がありそうですが・・・・
 息子の説では,台座の上には鉄の像が立っていて,誰かに盗まれて中国に売られた(マンホールのように),というものです・・・


 さて,村野山人は村野山人小伝が詳しい。

 これによれば,村野は乃木静子の10才ほど年長と云うことになる。
 村野氏は,野木大将の殉死に感銘して,一財を擲って乃木神社等を建立したという。

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乃木静子(Wikipedia)

乃木 静子(のぎ しずこ、安政6年11月6日(1859年11月29日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、幕末・明治期の女性で、陸軍大将・乃木希典の妻。

来歴
 安政6年11月6日、鹿児島藩医・湯地定之・貞子夫妻の4女(7人兄弟姉妹の末っ子)として出生。幼名はお七、またはお志知。
 明治5年12月2日、当時、数え14歳の時に海外留学から帰国した長兄・定基に呼び寄せられる形で家族揃って東亰赤坂溜池2番地の湯地定基邸に転居、東亰府麹町區にある麹町女學校に入学。
 陸軍軍人・伊地知幸介や野津鎮雄らの勧めにより、躊躇しながらも数え20歳で希典と結婚。
 長男・勝典を始め、4人の子宝に恵まれるが、勝典と次男・保典を残し、下の二人は生後、間もなく夭折する。
 新婚当時は生活も厳しく、貧しい生活をしている上に姑・乃木寿子(久子表記での文献有り)との確執もあり、苦労・苦悩が続き、1年半ほど勝典・保典を連れて別居している。
 日露戦争が開戦し、出征する希典(出征時は既に陸軍中将?陸軍大将)・勝典・保典(二人とも出征時は既に陸軍少尉)に東亰・銀座の高級化粧品店・資生堂で1つ9円もする香水2つと8円の香水1つの計3つを購入し、贈る。
 当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりだったが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈った。
 当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2ヶ月分に相当する。
 静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、もし戦死した後、遺体から異臭が放たれれば夫と愛息子が不敏この上ないという妻として、母親としての哀しいまでの家族を想いやる愛の表現であった。
 明治37年5月27日、勝典が金州南山(通称:金山または南山)で銃弾に打たれて腸を損傷、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、軍医による手術・治療を受けるも出血多量で戦死した。
 勝典は死後、1階級特進で陸軍中尉に昇進。
 明治37年11月30日、苦戦を強いられていた帝国陸軍は第3軍司令官・希典と児玉源太郎大将の戦略で203高地を進軍していたが、この時に保典が砲弾に打たれたショックで岸壁から滑落、岩場に激突し、頭が砕けて戦死した(即死)。
 保典も勝典と同じく、1階級特進で陸軍中尉に昇進。
 晩年は盆栽などを僅かな楽しみとしたといわれる。
 明治45年7月、明治天皇が糖尿病により逝去、その後の大正元年9月13日、明治天皇を追って希典と共に乃木邸(現在の東京・港区赤坂にある乃木神社)にて胸を突き殉死。享年、数え54歳。

性格
 湯地定之・貞子夫妻の末っ子として誕まれたこともあってか、両親・兄姉らに蝶よ花よと大切に育てられた為、性格は内向的で、体もさほど丈夫ではなかった。
 当時はまだ写真撮影が高価な時代であったため、若いころの写真が残っておらず(あっても本人かどうかが特定できないため)、本人であると確認できる写真は晩年のころのものしか無いが、10代・20代のころは美女であったとされる(末っ子であったため、大事に育てられた育ちの良さも関係するとの見方もある)。
 今日では大和撫子と呼べるほどの女性は絶滅したともいわれているが、彼女のことをわが国始まって以来の史上最高の大和撫子に挙げる声も大きい。

辞世の句
出でましてかへります日のなしときく
 けふの御幸に逢ふぞかなしき


家族(乃木家)
乃木希典(1849-1912) - 夫
乃木希次(1805-1877) - 義父(希典の実父)
乃木寿子(1828-1896) - 義母(希典の実母。一部に乃木久子表記での文献有り)
乃木勝典(1879-1904) - 長男
乃木保典(1882-1904) - 次男
乃木恒子(1885-1886) - 長女
乃木直典(生没年不詳) - 三男

家族(湯地家)
父 - 湯地定之:鹿児島藩侍医
母 - 湯地貞子:鹿児島藩士である池田家の娘で、結婚前の幼名は天伊(テイ)。
   結婚後の名前の読みはサダコである。
次女・三女の結婚後の名前にていの読みがあるのは実母の幼名から採られている。
長兄 - 湯地定基:貴族院勅撰議員、根室県令(1843-1928)
次兄 - 湯地定康:海軍大尉
末兄 - 湯地定監:海軍機関中将、貴族院勅撰議員
長姉 - 名前不明:夭折したため、名前は不明。
    永らくの間は長妹が当人(本来の長女)だとされていたため、名前も馬場貞子と思われていた。
次姉 - 幼名不明:結婚後に馬場貞子となる。
    結婚後の名前の読みはテイコである。(母親の名前と同じ字画なので区別するためと想われる。)
    長姉の夭折により実質的な長女として育てられたため、永らくの間は本来の長女の名前が馬場貞子であるとされ、次女である当人が夭折したとされていた。
    希典・静子夫妻の遺体を発見したのは彼女である。
末姉 - 湯地お六:結婚後に柴テイとなる(てい・てい子・テイ子などと表記する文献もある)。
    静子と最も歳が近いため、特に仲が良かったといわれる。