敬天愛人 自分用メモ 四字熟語
ちょっとお仕事で,四字熟語を調べたので,忘れないように,自分用メモを残す
今日は,敬天愛人
西郷南洲翁の遺訓として有名だが,初出は康煕帝らしい。
しかし,耶蘇教との関わりがあったとは・・・
道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。
天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。
(西郷南洲顕彰会発行・南洲翁遺訓より抜粋)
なお,以下は,西郷隆盛書「敬天愛人」の典拠から
西郷隆盛は一八七五年(明治八)ころ、訪れる客の求めに応じてしばしば「敬天愛人」という四字成句を揮毫した。諸橋轍次氏編『大漢和辞典』は、この四字成句を「西郷南洲の語」とし、『南洲遺訓』の一節を引いている。「道は天地自然のものなれば、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始す可し」
『南洲遺訓』は旧庄内藩の藩士たちがしばしば鹿児島の西郷のもとを訪れて座談したさいの記録であり、最終的には一八七四年(明治七)に訪問した赤沢経言が筆録し、一八七五年(明治八)に訪問した菅実秀の校閲で、西郷死後に公刊されたものである。
西郷隆盛揮毫の「敬天愛人」の書は、現在一〇幅残っているが、一八七五年以後の揮毫とされている。したがって西郷隆盛がこの四字成句を思いつくのは、それ程以前のことではないであろう。
中村敬宇訳述『西国立志編』井田好治氏・沢田鈴歳氏・増村宏氏ら鹿児島在住の方々の研究によれば、「敬天愛人」の直接の典拠は、サミュエル・スマイルズ著・中村正直(敬宇)訳述『西国立志編』(原書は『Self-Help(自助論)』)である。
同書は一八七一年(明治四)刊行されているが、訳者「緒論」に、国会議員たる者は「必ず学明らかに、行い修まれるの人なり、敬天愛人の心ある者なり、己に克ち、独りを慎しむ工夫ある者なり」という一節があり、また「西国古今儁傑の伝記を読み、その皆自主自立の志あり、艱難辛苦の行ないあり、敬天愛人の誠意に原づき、もってよく世を済い、民を利するの大業を起こし云々」と述べている。
中村敬宇著『敬天愛人説』実は中村敬宇には、これより以前に『敬天愛人説』と題する著作がある。敬宇は昌平黌で儒学を学ぶ一方で、蘭学・英学を学び、一八六六年(慶応二)イギリスへの留学生派遣にさいし、監督として引率し、一八六八年(慶応四)戊辰戦争のさなかの六月帰国した。
帰国するやかれはすぐに駿府に移った。前将軍徳川家の駿府移住に従ったのである。駿府はまもなく静岡と改称され、静岡藩となる。
敬宇は駿府に移ってすぐ『敬天愛人説』を執筆した。
これは全文「敬天愛人」の説明であるが、たとえば「何をか愛人という、曰く、天を敬するがゆえに人を愛す。わが同胞を愛するは、わが父を敬するによる。」というくだりがあるが、この父は肉親ではなく「天上の父」つまりキリスト教の父なのである。出典は新約聖書のマタイ伝の一節である。
これは出典を問い合せた静岡藩権大参事大久保一翁(忠寛)の礼状によっても確かめられる。
敬宇はこれを中国伝統思想の「天」=上帝と重ねあわせて理解しようとしたようである。
敬宇の号自体「敬天」と同義であろう。
康煕帝書「敬天愛人」一六七一年(康煕十)清の康煕帝が「敬天愛人」という扁額を書いて、キリスト教会に与えたことがある。これが後年問題を生じた。
儒教の「天」は上帝であり、キリスト教の「天主」と同じとする折衷的な解釈で孔子や祖先への伝統的行事への参加を黙認するか、それとも中国の「天」は宇宙に広がる空間・自然であって、神ではないとし、孔子崇拝や祖先への伝統的行事への参加や、「天」「上帝」の用語の使用を禁止するかの対立である。
結局ローマ教皇は後者の解釈を支持したから、康煕帝はこれに激怒し、前者の解釈に従うもののみ許容することとし、のち雍正帝はキリスト教を全面的に禁止している。
「天」をどう理解するかは、中国文化圏におけるキリスト教のあり方にかかわる重大問題であったのである。
