2008年7月 5日

甲突川河畔のモニュメント

koutukikahanweb.png

 6月1日から書きつづってきた甲突川河畔のモニュメントを,ページにまとめました。
 http://www.xv250.com/sanpo/koutuki/mo.htmlです。

 やはり,一覧にすると見やすいですね・・・

 あとは,マップでもつけて,所在をはっきりさせれば,データベースとしても使えそうですね。
 息子の夏休みの宿題にでもしましょうか・・・

2008年6月27日

旧鹿児島刑務所正門

Image1.jpg 鹿児島アリーナの入り口に立つ旧鹿児島刑務所正門
 
 このアリーナ公園は,息子の縄張り公園の一つでもあります。
 旧鹿児島刑務所は,日本で唯一の石造りの重厚な刑務所だったそうで,その全体写真を見たかったのですが,刑務所という建物の性格の為か,ネットでは発見できませんでした。

 この正門は,子供らの美術の宿題に,いつも一役買ってくれています。
 設計は,鹿児島出身の山下啓次郎です。

(参考リンク)
 旧鹿児島刑務所正門
 鹿児島市医報(親子の交流がうらやましい)


山下啓次郎
 山下 啓次郎 (やました けいじろう、 慶応3年12月(1867年12月) - 昭和6年(1931年) は明治・大正期の建築家
 東京帝国大学工科大学(現・東京大学工学部)卒業。司法省に務め、五大監獄を設計する。
ジャズピアニスト、山下洋輔は祖父・啓次郎の事跡を尋ね、小説「ドバラダ門」を書いた。

経歴
1867年(慶応3年)鹿児島に生まれる、父は薩摩士族、房親
1876年(明治9年)上京
一高を経て工科大学へ。辰野金吾のもと、建築を学ぶ
1892年(明治25年)帝国大学工科大学卒業(同期生に伊東忠太ら)
警視庁入庁、のち司法省に移り営繕を担当
1901年(明治34年)? 欧米の監獄を視察し、翌年帰国 
1930年(昭和5年)司法省を辞する
1931年(昭和6年)逝去

主な作品
千葉監獄(1907年、現千葉刑務所)
鹿児島監獄(1908年、門のみ現存)
奈良監獄(1908年、現奈良少年刑務所)
名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所(1922年、現名古屋市市政資料館)
山下が中心になって設計した千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島の監獄は五大監獄といわれる。

 さて,甲突河畔のモニュメントを巡る旅も,ここで一応終わりです。
 ほんとは,ここから出発すべきだったのかもしれませんが,まあ,松方正義の序幕日が最初の記事だったこともあって,並び方はばらばらになってしました。

2008年6月26日

甲突河畔のモニュメント 意味不明の碑(桜樹植樹記念碑)

PICT0017.JPG これは,何が書いてあるのかさっぱりわかりませんが,裏を見ると,肥薩鉄道の開業を記念した桜の植樹の記録のようです。
 植樹の計画を立てた会社が,この碑を建てたようですが,残念ながら,肝心の会社名も読めません。

 鹿児島県知事 阪本 釤之助(さかもと さんのすけ)は,安政4年6月24日(1857年8月13日) - 昭和11年(1936年)12月16日)。1907年から1911年まで知事だったようです。
 作家、詩人の高見順は庶子。タレントの高見恭子は孫。作家の永井荷風は甥,だそうです。
  


(裏面)
明治42年11月20日肥薩鉄道開通式の当市に挙行
せらるるや我社は此盛典を記念せん為め地を甲突河畔
種馬場の両岸にとし桜樹を移植するの計画を立つ時に
同感の有志469名奮てこの計画を賛助し同年12
月初旬其工を了つるを得たり移植の桜樹495本
両岸の延長各8丁30間実に宛然たる○堤なり爾来桜
樹の生育良好にして花時の風景最も佳なり世人種馬場
の称を改め桜馬場と称するも偶然に非ず将来幸いし
て江湖諸彦の愛護に依り○茂するの暁には此地の薩
南の一名勝たるは○○て待つへきなり今○記念碑建設
に際し茲に其顛末を録し後代に伝ふと云爾
明治44年3月22日
鹿児島○業○○社

 

2008年6月25日

甲突河畔のモニュメント 乃木将軍婦人湯地氏誕生之地

yuji.jpg 乃木将軍婦人湯地氏誕生之地の碑
 なぜか,台座のみで肝心の碑or銅像がない・・・

 実はこの碑の隣に,写真の「湯地中将生誕の地」の石碑がある。
 この石碑も,頌が記されていたであろう銘板がなく,石碑の裏も,削られたのではないか,と思われる痕がある(削りだしの石なのかもしれないが)。

 なんだか,事情がありそうですが・・・・
 息子の説では,台座の上には鉄の像が立っていて,誰かに盗まれて中国に売られた(マンホールのように),というものです・・・


 さて,村野山人は村野山人小伝が詳しい。

 これによれば,村野は乃木静子の10才ほど年長と云うことになる。
 村野氏は,野木大将の殉死に感銘して,一財を擲って乃木神社等を建立したという。

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乃木静子(Wikipedia)

乃木 静子(のぎ しずこ、安政6年11月6日(1859年11月29日) - 大正元年(1912年)9月13日)は、幕末・明治期の女性で、陸軍大将・乃木希典の妻。

来歴
 安政6年11月6日、鹿児島藩医・湯地定之・貞子夫妻の4女(7人兄弟姉妹の末っ子)として出生。幼名はお七、またはお志知。
 明治5年12月2日、当時、数え14歳の時に海外留学から帰国した長兄・定基に呼び寄せられる形で家族揃って東亰赤坂溜池2番地の湯地定基邸に転居、東亰府麹町區にある麹町女學校に入学。
 陸軍軍人・伊地知幸介や野津鎮雄らの勧めにより、躊躇しながらも数え20歳で希典と結婚。
 長男・勝典を始め、4人の子宝に恵まれるが、勝典と次男・保典を残し、下の二人は生後、間もなく夭折する。
 新婚当時は生活も厳しく、貧しい生活をしている上に姑・乃木寿子(久子表記での文献有り)との確執もあり、苦労・苦悩が続き、1年半ほど勝典・保典を連れて別居している。
 日露戦争が開戦し、出征する希典(出征時は既に陸軍中将?陸軍大将)・勝典・保典(二人とも出征時は既に陸軍少尉)に東亰・銀座の高級化粧品店・資生堂で1つ9円もする香水2つと8円の香水1つの計3つを購入し、贈る。
 当初、静子は9円の香水を3つ購入して3人にそれぞれ贈るつもりだったが、9円の香水が2つしかなかったため、9円の香水を勝典と保典に、8円の香水を希典に贈った。
 当時の9円というのは、成人女性が精一杯働いて稼ぐことの出来る平均給与の約2ヶ月分に相当する。
 静子がそこまでして高価な香水を贈ったのは、もし戦死した後、遺体から異臭が放たれれば夫と愛息子が不敏この上ないという妻として、母親としての哀しいまでの家族を想いやる愛の表現であった。
 明治37年5月27日、勝典が金州南山(通称:金山または南山)で銃弾に打たれて腸を損傷、向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き、軍医による手術・治療を受けるも出血多量で戦死した。
 勝典は死後、1階級特進で陸軍中尉に昇進。
 明治37年11月30日、苦戦を強いられていた帝国陸軍は第3軍司令官・希典と児玉源太郎大将の戦略で203高地を進軍していたが、この時に保典が砲弾に打たれたショックで岸壁から滑落、岩場に激突し、頭が砕けて戦死した(即死)。
 保典も勝典と同じく、1階級特進で陸軍中尉に昇進。
 晩年は盆栽などを僅かな楽しみとしたといわれる。
 明治45年7月、明治天皇が糖尿病により逝去、その後の大正元年9月13日、明治天皇を追って希典と共に乃木邸(現在の東京・港区赤坂にある乃木神社)にて胸を突き殉死。享年、数え54歳。

性格
 湯地定之・貞子夫妻の末っ子として誕まれたこともあってか、両親・兄姉らに蝶よ花よと大切に育てられた為、性格は内向的で、体もさほど丈夫ではなかった。
 当時はまだ写真撮影が高価な時代であったため、若いころの写真が残っておらず(あっても本人かどうかが特定できないため)、本人であると確認できる写真は晩年のころのものしか無いが、10代・20代のころは美女であったとされる(末っ子であったため、大事に育てられた育ちの良さも関係するとの見方もある)。
 今日では大和撫子と呼べるほどの女性は絶滅したともいわれているが、彼女のことをわが国始まって以来の史上最高の大和撫子に挙げる声も大きい。

辞世の句
出でましてかへります日のなしときく
 けふの御幸に逢ふぞかなしき


家族(乃木家)
乃木希典(1849-1912) - 夫
乃木希次(1805-1877) - 義父(希典の実父)
乃木寿子(1828-1896) - 義母(希典の実母。一部に乃木久子表記での文献有り)
乃木勝典(1879-1904) - 長男
乃木保典(1882-1904) - 次男
乃木恒子(1885-1886) - 長女
乃木直典(生没年不詳) - 三男

家族(湯地家)
父 - 湯地定之:鹿児島藩侍医
母 - 湯地貞子:鹿児島藩士である池田家の娘で、結婚前の幼名は天伊(テイ)。
   結婚後の名前の読みはサダコである。
次女・三女の結婚後の名前にていの読みがあるのは実母の幼名から採られている。
長兄 - 湯地定基:貴族院勅撰議員、根室県令(1843-1928)
次兄 - 湯地定康:海軍大尉
末兄 - 湯地定監:海軍機関中将、貴族院勅撰議員
長姉 - 名前不明:夭折したため、名前は不明。
    永らくの間は長妹が当人(本来の長女)だとされていたため、名前も馬場貞子と思われていた。
次姉 - 幼名不明:結婚後に馬場貞子となる。
    結婚後の名前の読みはテイコである。(母親の名前と同じ字画なので区別するためと想われる。)
    長姉の夭折により実質的な長女として育てられたため、永らくの間は本来の長女の名前が馬場貞子であるとされ、次女である当人が夭折したとされていた。
    希典・静子夫妻の遺体を発見したのは彼女である。
末姉 - 湯地お六:結婚後に柴テイとなる(てい・てい子・テイ子などと表記する文献もある)。
    静子と最も歳が近いため、特に仲が良かったといわれる。


甲突河畔のモニュメント 堀井鶴畦書碑

PICT0061.JPG
 堀井鶴畦書碑です。
 この碑は,ごらんの通り,大変美しい。
 とても昭和62年に建てたものとは思えません。
 裏面の写真もあるのですが,あまりにピカピカで,写真を撮っている私が映り込んでいます。
 形といい,色といい,硯をイメージしているのでしょうね・・

 碑文は,
  碧水忽開新鏡面青
  山都是好屏風
と読めます(違うかも・・・)

 検索しても,意味はわかりませんでした

 また,残念ながら,「堀井鶴畦」で検索しても,ヒットする情報はありませんでした。

(裏面)
堀井鶴畦先生の功績を顕彰する為に鹿児島県書道会
並に有志一同之を建つ
 昭和六十二年四月
    略歴
 一 明治二十年十一月六日 福岡県朝倉郡大福村で出生
 一 大正八年三月     福岡県小倉師範学校卒業
 一 大正十一年八月    文検合格
 一 大正十四年四月    鹿児島第一師範学校教諭
 一 昭和十一年四月    鹿児島師範学校教授
 一 昭和二十年四月    鹿児島県書道会会長
 一 昭和二十五年四月   鹿児島大学助教授
 一 昭和三十三年十一月  南日本文化賞受賞
 一 昭和三十七年二月   鹿児島大学教授
 一 昭和三十八年三月   鹿児島大学定年退官
 一 昭和四十二年十一月  鹿児島県民表彰を受く
 一 昭和四十四年十一月  勲三等瑞宝章を受く
 一 昭和五十年十一月十五日 永眠 行年七十八才
 
          題字 川上南冥
          略歴 馬場啓彰
 

2008年6月24日

甲突河畔のモニュメント 高麗橋 増山俊春 はばたき

PICT0117.JPG
増山俊春 
1946 東京に生まれる
1970 東京造形大学彫刻科卒業
1972 東京芸術大学大学院彫刻科修了
1973 東京芸術大学研究科修了 舟越保武に師事
1980 昭和会展招待出品(日動画廊)
1981 昭和会展林武賞受賞(日動画廊)
1987 個展(ギャラリーせいほう)
1988 個展(札幌・三越、松坂屋本店)
1989 北海道羅臼町役場に「あやとり」設置
鹿児島市甲突川畔「はばたきI,II」設置

http://www.seiho-sya.co.jp/artists-pages/t_masuyama/t_masuyama_top.htmlでは,作品も販売されてますが,,,高い・・・


2008年6月23日

甲突河畔のモニュメント 戦災復興記念塔

sensai2.jpg さて,この記念塔,赤いつばの剣が天に向かっている,と思ったのだが,爆弾が落ちて下が火事,ともみえる・・・
 でも,戦災復興だから,火事はおかしい・・・

 作者の名は見えない・・・

 なお,下部の赤い部分は,叩くとぽこぽこと音がする・・・

 補強が必要かもしれない・・・


戦災復興都市計画(Wikipedia)

戦災復興都市計画(せんさいふっこうとしけいかく)は、太平洋戦争後の日本において空襲を受けて破壊された都市の復興のために策定された都市計画である。

概要
 戦前の日本では大都市都心部でも木造建築物が多く存在し、不燃化が非常に立ち遅れていた。
 そのため太平洋戦争においてアメリカ軍は「紙と木でできた」日本の都市への攻撃方法として、焼夷弾による空襲を採用した。
 この焼夷弾による空襲を受けた都市の多くは灰燼に帰し、文字通り焼け野原となった。
 戦後GHQによって解体されるまで都市計画を所管していた内務省では、空襲による壊滅的打撃を一種の好機として捉え、災いを転じて福となすべく全国の戦災115都市の都市基盤の近代化のため、都市計画の策定を終戦の直前から始めた。

戦災復興都市計画の策定に至るまで
 近代以前の城下町の面影を多く残す日本の都市は、近代化された後のインフラ整備が立ち遅れていた。
 また都市住民の間に「都市は周辺地域全体の産業・文化に対しても強い影響力を持つため、都市は周辺地域全体に対して責任を果たさなければならない」という考え方も生まれなかったため、住民たちは都市インフラの整備による周辺地域も含めた都市圏全体の発展よりも、自己の利害のみを追求することが多く、近代以前の道路網などがそのまま残されていた。

戦災復興都市計画の策定
 日本全国の主要都市が太平洋戦争の空襲により焦土と化した。
 空襲被害は、215都市、面積64500haに及び、日本の主要都市は壊滅的な打撃を受けた。
 終戦の直前、当時の内務省国土局計画課長で、戦後運輸大臣を歴任した大橋武夫は、内務省のスタッフに対して戦災復興都市計画の立案開始を命じた。
 内務省は終戦とともに戦災地復興計画基本方針を主要都府県に内示する。
 復興都市計画策定では、2段階に分けて、第1回は青森、水戸、宇都宮、前橋、伊勢崎、長岡、甲府、岡山、長崎、佐世保、下関、八幡、鹿児島などで、第2回は広島、呉、千葉、銚子ほかに中央から職員の派遣がなされたほか、疎開跡地を公共用地として確保するための都市計画決定を指示し、戦災復興事業に影響しないように建築抑制を行うこととした。


復興組織の立ち上げ
 1945年11月5日、事業を推進するために内務省から独立して省と同格の戦災復興院(計画・土地・建築・特別建設の4局)が設立され、物資統合の担当を行う経済安定本部(経済企画庁の前身)とともに計画推進の中心を担った。
 戦災復興院は大橋武夫の考えによる。戦前のインフラ行政は一元化されておらず、例えば住宅行政は、内務省社会局から厚生省住宅課が担当するなどしていた。
 そのため復興院設置の際に住宅行政などを旧都市計画・防空行政の建築行政と合わせ、非戦災都市をも含めて担当する建築局(後に住宅局)とするなどし、各省庁に分かれていた関連部局を戦災復興院に全面移管した。
 経済安定本部は総務長官に就任し、後年左派社会党で書記長を歴任した和田博雄をはじめ、戦前の革新官僚が再登板する。
 このため、戦後経済復興の政策プランは満州国の計画経済や企画院による戦時物資動員計画をもベースとしているので、大半が革新官僚と労農派の合作であるとみなされてもいる。

 戦災復興院総裁に就任した小林一三は、地方自治の観点から、戦災復興事業を国の事業として執行することを認めず、自治体執行を強く主張した。
 五大都市も市施行(一部の都市は県施行)になり、予算配分も東京一極集中を避けようと地方都市に優先して配分された。
 越澤明はその著書の中で、小林の地方自治の主張は理念としては正しいのだが、自治体の首長や地方議会が都市復興にあまり熱心でない場合は問題が生じると指摘している。
 事実、首長や都市計画関係者の熱意の差が戦災復興の進捗に直結することとなり、小林の判断は禍根を残した。
 内務省は1948年に解体され、建設部門(国土局)は戦災復興院と合併し、建設院(官房と総務、水政、地政、都市、建築、特別調達の6局)を経て、同年7月に建設省(現国土交通省、当時は官房と総務、河川、道路、都市、建築、特別建設の6局)へと改組された。

 戦災地復興基本方針の翌年9月には特別都市計画法が制定され、各都市ではこの戦災地復興基本方針や特別都市計画法を元に、それぞれの都市の実情を踏まえた復興計画が策定されていく。
 そして既成市街地を中心に行われたこの事業によって、名古屋、仙台、広島、豊橋、福井、姫路など多くの都市で抜本的な都市構造の改造と、名古屋、広島の100m道路、仙台、堺、鹿児島、姫路、富山などの広幅員の並木道、都心の公園が実現した。


戦災復興都市計画の挫折とその影響
 戦災復興都市計画は、帝都復興によって開花し、国内のみならず外地や満州国の都市建設で磨き上げられてきた日本の都市計画手法・技術・エンジニア等を惜しみなく投入した、近代日本の都市計画の集大成とも言えるものであった。
 しかし全ての都市がその目的を果たすことができたわけではない。
 戦災による資材・資金・人手不足、都市計画などよりもその日を生き延びることで精一杯という住民の状況と、その上にGHQからの反対とドッジラインによる緊縮財政という巨大な壁に阻まれ、東京を始めとする多くの都市で計画が縮小・挫折した。
 特にGHQの反対とドッジラインによる緊縮財政は復興都市計画にとって致命的な痛手となった。
 GHQは復興都市計画には兎角冷淡であり、「まるで戦勝国の都市計画だ」と言って計画の縮小を求めていた。

特色
 戦災復興都市計画の特色として、その特徴としては土地区画整理事業を活用することとし、組合が施行を希望した場合はこれに国庫補助することを閣議で決定していることがあげられる。
 しかし制定された特別都市計画法では組合施行を法的に定めていないこともあって東京を例外としてほとんどの都市では組合施行は行われていない。
 また土地利用計画を策定することとし、街路について主要幹線は大都市では幅員50m以上、中小都市では幅員36m以上として、必要に応じ50?100mの広幅員道路にし駅前広場を設けること、緑地(公園、運動場、公園道路等)を市街地面積の10%以上とし、市街地外周に緑地帯(グリーンベルト)を設けることなどが盛り込まれ、非常に理想主義的色彩が強いということが挙げられる。
  戦災都市の防災対策と美観創出には緑地帯を重視し、戦災地復興計画基本方針に公園や公園道路ほか緑地を「系統的に配置せらるること」、「必要に応じて市街外周に於ける農地、山林、原野、河川等、空地の保存を図るため、緑地帯を指定し、その他の緑地と相俟って、市街地へのきつ入を図ること」と示している。
  このため、100メートル道路ほか、幹線道路も並木を創出されたほか、仙台市の勾当台公園や熊本市の辛島公園などのスペースや前橋市の広瀬川、芦屋市の芦屋川、神戸市の石屋川、新生田川、妙法寺川、広島市内の全河川、徳島市の新町川などの河川沿いの帯状緑地を計画し出現させる。
  河岸緑地帯について近年出現した姫路市の運河公園や浜松市の馬込川公園も戦災復興期の計画が元になっている。
  そして広幅員道路と緑地との有機的なネットワークなど、日本では今まで実現することが出来ないでいた政策が取り入れられているほか具体性も強く、道路幅員の具体的な指定や緑地面積の目標値などが基本方針の時点で織り込まれている。
  また、経済合理性一辺倒で計画がなされていないということも特色の一つである。
  高度経済成長期以降の道路計画が、ともすれば「自動車交通をいかに処理するか」ということだけを考慮して立案されていたのに対し、戦災復興で造られた道路の多くは、広い緑地帯と歩道を有し、市民の憩いの場となるように設計されている。
  アメニティを重視したインフラ整備が近年唱えられているが、その考え方は決してバブル期以降に現れた新しいものではなく、戦災で国土が荒廃していた復興期、もっといえば大正期に制定された街路構造令等すでに存在していた考え方であった。

 県庁所在地クラスの地方都市の多くで見られる、「中心部の駅前に中小規模の駅前広場があり、そこから30?50mの道路が真っ直ぐ延び、他の道路はその広い道路を基準に碁盤の目に近い形で配置がなされている」という街区パターンが、戦前に耕地整理等を行われていない都市の多くで戦災復興によって造られることになったため、その意味で戦災復興が戦後日本の地方都市像までをも形成したことにもなる。

 住宅復興についてはイギリスは全国民を対象に公営住宅を考えたが、日本では炭鉱住宅と、戦災復興院の建築職の大部分が勤務していた特別建設部が関与する米軍住宅・米軍施設の建設が主で、一般の住宅には手がつけられていない。
 また満州国で日本の都市計画研究者が試みた地券などの新しい考え方も、戦後の日本では公にされることがなく復興計画にとりいれられることは、ほとんどなかった。
 先の記述にもあるとおり、GHQや米軍は都市復興にほとんどかかわりを持たず、しかも区画整理の公共減歩は、補償なしでの財産の没収ではないか、とのクレームをつけている。
 これに対しては財産額として減価が無いということで当時は納得をさせている。
 広島を占領したオーストラリア軍は建築家のシャビィ少佐などが復興計画に若干の提案をしたりしたこともあったが、沖縄や横浜では広大な軍用地が収用され、戦後都市復興に大きな妨げとなる。

 また多くの都市が罹災したため、計画策定の技官の人員が足りず、一人の人間によって復興計画が策定された都市もある。
 そのため土木行政は、高度経済成長期のような河川・公園・道路・建築物とそれぞれ担当部署が異なる縦割り行政による個別の整備とは違い、河川と緑地、道路と公園といった異なるものが連続性を持った形で体系的にまとめ上げられている。
 この後に内務省は建設省となり、土木行政は深化したものの、高度経済成長期のインフラ整備においては、各部門ごとの横のつながりはかえって弱くなったといえる。
 こうした人員不足等も案じて復興院は1946年から各地の復興都市計画策定に建築家をも参加させ、彼らを復興院の嘱託として、各復興都市に主任と助手のペアで派遣した。
 このとき(1)計画図及び計画説明書(計画の基盤及案の内容)各2部を作り一部は市に残し一部は本院へ提出(2)地元の意見又は希望事項あれば本院へ提出(3)地元有識者への啓蒙 を依頼事項としている。
 派遣メンバーは土地の国有化などを叫び、戦後復興の都市や地域計画などに参加しようとした国土会に関係していた面々が中心で、実際東京大学建築学教室で都市計画の研究をしていた高山英華は日米開戦期には企画院の都市計画関連の仕事に関係し、それが戦後に立ち上げられる国土会のもとになってもいた。

 それでも、敗戦という状況下でいち早く復興事業に取り組む体制を整えることができたのは、戦時期に防空総本部の設置などにより都市計画のスタッフが強化されていたからであるし、また事業が割と円滑に進んでいるのも関東大震災後の震災復興事業等の経験があったことも指摘されている。
 防空緑地などの施策や防空都市計画は戦後の復興も見据えており、建物疎開も道路予定地を中心に行われた。
 しかし、ヨーロッパなどでは第一次世界大戦後の戦後復興と第二次世界大戦後のそれとで復興事業の技術が進歩したが、日本ではほとんど復興技術の変化が見られなかった。
 イギリスでは第二次世界大戦後の1947年に制定した都市計画法で開発権の国への帰属を規定する画期的な制度を提案し、その後、保守党と労働党の政権交代により土地政策に変化はあるものの、開発を行うには許可が要るとの原則が残された。
 しかし、日本ではこのような土地政策に対する本格的な制度改革は行われなかった。

鹿児島新生甲突川と五大石橋http://www.js.yamanashi.ac.jp/~skita/kago.html
(資料・写真が秀逸)

2008年6月22日

甲突河畔のモニュメント 地神水神大集合

PICT0088.JPG なぜか,そこいら中の地神水神の大集合です。
 元お地蔵様か道祖神のような方までおられます。
 お顔がないのは,廃仏毀釈のせいでしょうか・・
 
 下の井戸埋めなどを読むと,なんだか霊的な手続きを踏まないと,ものすごく危険な感じがするんですけど・・・
 

井戸撥遣(埋め)について
鹿児島県:廃仏毀釈
九州・民俗仮面と祭りへの旅
身近にある信仰石造物(地神(じじん)さま)
「地神講」
すいじん [水神]


2008年6月21日

甲突河畔のモニュメント 牛島満大将 沖縄縣民斯ク戦ヘリ

ushijimat.jpg  矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らむ
  秋を待たで枯れゆく島の青草は 皇国の春によみかつらなむ

 第32軍司令官 牛島大将は 昭和20年6月23日未明
 大東亜戦争最後の決戦場となった沖縄本島摩文仁の丘に立て 辞世2首
 を遺して自決 18万6千余名の将兵住民と共に玉砕された
 大将は 明治20年7月東京で誕生 この年厳父陸軍中尉牛島実満
 が病歿されたため 母堂竹子に抱かれ 幼い兄姉と共に帰郷して
 この地で成長された 甲突川畔の自然と母堂の大愛 薩摩伝統の
 郷中教育の中で 大将の誠忠仁恕豪放の人格は形成されたのである
 

「牛島満大将」で検索をかけて,トップで引っかかるのは,<平和問題ゼミナール・プレゼミ>である。
 ここには,鹿児島に視点を据えて沖縄戦を考える,として沖縄戦に至るまでの経緯が記述されている。
 
 南風語録 第7回もうひとつの「沖縄戦」にある「牛島軍司令官は、自分の自決にあたっての場所は、できるだけ人目につきやすいところを望んだ」との記述は,なかなか考えさせられる。
 
 琉球新報のコンパクト事典によると
 第32軍 (だいさんじゅうにぐん)
 日本陸軍は南西諸島防衛強化のため1944(昭和19)年3月22日、大本営直轄の沖縄守備隊として第32軍を創設した。
 戦局の進展に伴い逐次増強され、同年7月には4個師団、5個旅団を擁する強力な守備隊となったが、沖縄戦突入直前、台湾軍(第10方面軍)の配下に入り、第9師団が台湾に転出、補充もないまま持久戦術に転じ、45年6月23日軍司令官牛島満大将と参謀長長勇中将らは自決した。兵力は11万5000。
とある。


 昔私は,沖縄復興に尽力された,ある鹿児島県出身の代議士の事務所で,大将が打たれた次の電報を教えて頂いた。
 
一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄縣民斯ク戦ヘリ
縣民ニ對シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

2008年6月20日

甲突河畔のモニュメント 噫壮烈 法亢盛孝君

PICT0074.JPG噫壮烈
法亢盛孝君

陸軍少将正五位勲三等功四級大迫通貞閣下題額

男子既に四方の志を抱く東亜の天風雲急に功業期すべきなり況んや日満一体新秩序建設の雄図
大にして同じきに於いてをや満州国陸軍歩兵少校法亢盛孝君は小吉君の長子母は宇都氏元子明治四一年
十月二九日南林寺町に生る名山小学を経て荒田小学高二卒後大正十五年三月県立工業学校機
械科を卒へ職を鉄道に奉じ昭和三年四十五連隊に幹部候補生として入隊七年歩兵少尉に任じ
叙正八位六年満州事変勃発するや吉林鐵道守備隊教官として応聘満州国軍に投し八年上尉と
なり九年四月事変の功により叙勲六等賜瑞宝章十月大連陸軍特務機関に派遣十年中央陸軍訓
練所入所首席を以て卒業御前講演御賜時計拝受の栄を荷ひ十二年三月補軍政部軍事調査部部
員七月関東軍司令部事務嘱託となる偶ま禎満国境変迫る即特務を帯び死を賭し敵情を悉す二ヶ月○事
殆ど了せしも八月二十七日更に部下五名を率い秘を探りしに突如三方より凶悪なる共産匪百余の猛襲に遇ひ
直に部署に就き応戦せしが衆寡敵せず身に二弾を受け弾尽きて愛刀を揮い囲みを突きて奮進数匪を屠り力
闘屈せず遂に牡丹江省密山県老黒背東部付近に斃る年三十満廷悼惜任歩兵少校叙勲四等授柱国章
人其壮烈に感じ九月四日新京公会堂に葬り儀荘厳を極む君潤達沈毅貌雄偉友に交はりて信事を謀るや
懇夙に四方学舎に入り薬丸流の剣法に達す子弟を率いて誘導方あり舎風亦揚る遺骨の
帰○柩を舎に迎へ九月二十日告別の式を挙げ更に郡元の光塋に葬る性孝悌既に父を喪ひ母氏
家をなすを勧む君私ヵに期するあるも枉げて之を聴るす而も時局の急娶るに及ばず陣中葡萄酒一瓶
を購ひ齋し献ぜんとして果たさず空しく歿後の遺品となる惟ふに勇武事功世其人に乏しからず只敏才
宏○上下の信望を得親しむべく敬すべく多難興亜の局に任ずべき君の如きは盖匹稀なり予等交わる浅く知
る深し徳忘る可からず君や壮心一蹶可惜異域の土となるも一念常に邦国にあり同士相議して表旌を舎庭にと
す議ひ幸いに容れられ官亦許さる乃略応を叙し功烈を頌して後進感奮の資たらむを希うと云爾
昭和十四年四月
在満支同志一同

  
 四方学舎についてはこちら
 大迫通貞氏については
  満州国軍軍事顧問一覧によれば,軍政部顧問として 陸軍歩兵中佐 大迫通貞 の名が見える。
  昭和20年2月時点では,熊本師管区司令部鹿児島地区司令部(大迫通貞中将)とある。
  昭和18年段階では,第四十七師団長大迫通貞 23期とある。
  昭和14年当時の役職は不明
 なお,関係あるのかないのかわからないが,「大迫通貞」で検索をかけると,特務機関云々なんて話題がhttp://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9623/7.htmlに出てくる。
 
 「法亢」は,鹿児島県実在名字によれば,「ほうが」と読むらしい。
 ところが,肝腎の法亢盛孝氏は検索にはヒットしない。
 法亢で検索すると,「伊地知正治が合伝流兵学を法亢宇左衛門に学ぶ」と出てくる。
 
 
 さて,肝腎の碑文ですが,話の前後は何となくわかるのだが,
 「而も時局の急娶るに及ばず陣中葡萄酒一瓶を購ひ齋し献ぜんとして果たさず空しく歿後の遺品となる」
の部分がよくわからないです。

 「枉げて母方の家を継ぐことにしたものの,時局柄娶ることが出来ず,(そのために買っていた)葡萄酒も遺品となってしまった」ということでしょうか?
 となると,葡萄酒を買ったのは本人と云うことになりますが,それを「齋し献ぜんとして」と表現するものだろうか?(「献」はともかく「齋」を人事に使うのだろうか)
 
 あと,「光塋」ってなんだろう。
 検索では,司馬光塋という(恐らく)中国の画家か何かの人しかヒットしないようなんですけど・・・
 
 えいいき[―ゐき] 0 【▼塋域】墓場。墓地。墓所。
とあるところをみると,「光」は美称のための付加字かな・・・

 さて,碑文中にも有るとおり,「勇武事功世其人に乏し」くはない。
 在満支同志一同の皆さんは, 歩兵少校にすぎない法亢盛孝氏のどの部分に共感してこの碑を建てたのだろうか・・
 普通に考えれば,「只敏才宏○上下の信望を得親しむべく敬すべく多難興亜の局に任ずべき君の如きは盖匹稀なり」がその理由に当たるのだろうが,美文ではあっても具体性に乏しく,共感には及ばない。
 顕彰碑の文言としては奇異に感じる「君私ヵに期するあるも枉げて之を聴るす而も時局の急娶るに及ばず」あたりに事情がありそうだが,秘すれば花,か・・・・。


 (註:○は,物理的に読めない字と能力的に読めない字の両方です・・・)
 (画像から文章を起こしたのですが,こんな字も読めないのか,って方,ご教示願えると有り難いです)